法と社会




課税と盗み 1


R・J・ラッシュドゥーニー



 出エジプト記20章17節の律法「あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」において、「欲しがる」という言葉は羨むとかだまし取るという意味で用いられています。主は、このことについて次のように言われました。

 戒めはあなたもよく知っているはずです。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え。」


 しかし、今日、貪欲や羨望は罪悪とは見なされていません。むしろ、ほとんどの政治理論家によって弁護されてもいます。人をだますことは、法に触れない限りけっして非難されません。

 ブルース・ゴールドマン、ロバート・フランクリン、そしてケネス・ペッパーは、著書『あなたの小切手は郵送中。−負債を合法的に利得に変える法』において、聖書に真っ向から対立する借金の方法を公然と提唱しています。出エジプト記22章25節の解説の中で次のように主張します。「このときから数年のうちに、人類は驚くべき道徳的進歩を遂げた。いまや高利は美徳となり、償わなくてもよい唯一の罪と見なされている。」2 
  この本は、「超過支出の父、ジョン・メイナード・ケインズ」に献上されており、最初の章のタイトルは、「ジョン・カルヴァンは1654年に死んだ。しかし、残念なことに、彼の倫理は今も生き続けている。」です。この章は次のように締め括られています。「支払いの遅延は不道徳でも非合法でもない。」これは合衆国政府や、財界、そして多くの頭の回転の良い人々が実行していることなのです。このような超過支出は最終的に破滅に至るのでしょうか。この著者たちは、ケインズの言葉を引用して答えます。「結局、我々は滅びるのである。」3 彼らは、自分たちが勧める教えによって引き起こされる結果がどの様なものになるか知らないわけではないのです。「ダン・アンド・ブラッドストリートによれば、債券回収不能のため、1972年に約918の会社が倒産してい」ます。4


 物事をある特定の範囲に限定し、その一面しか見ようとしないのは、妬みやすべての罪の特徴です。その態度を一言でいえば、「それは私にどのような益をもたらすのか。」です。結果的に、このような見方はさらに広範な社会的結果についてほとんど関心を示しません。

 著者たちは、ケインズを権威として崇め、その言葉を引用しています。これは驚くに当たりません。すべての社会主義と同様に、彼らの論理は搾取の論理です。国家は妬みを制度化し、欺瞞を課税制度に受肉させました。そのような社会において、聖書の教えは時代錯誤と見なされます。現代の世界において、国家は、妬みや盗みを課税体系の中に制度化させました。現代の国家は、聖書が教える限定された権限や人頭税を拒否し、課税対象の莫大なリストを携えて、富や財産を搾取します。

 アメリカの建国当初、合衆国最高裁は、「課税する権利を有する者は破壊する権利をも有する。」と述べました。私たちはこの発言を心に銘記しなければなりません。しかし、その後も、現代の国家はみな、「課税権は社会の進歩を促進させる力である」と考えているのです。これは「国家は救済者であり、建設者である」という現代人の信仰の一面です。ニズベットは19、20世紀の急進主義について次のように述べています。


 (急進主義は)政治的権力には救済の力があるという信仰を表明した。つまり、人や制度や機関を更生するには、それを捕縛し、清め、限度のない手段によって、場合によってはテロによっても救うことができると信じていた。新しい社会的秩序が形成される場合、理性に対するほとんど無限の信仰が権力と結び付くのである。5


 このように、(かつては教会が担っていた)新しい社会秩序の形成の事業は、国家が受け持つことになりました。

 しかし、「地上において神の支配を広め、地を従えよ」との神の命令(創世1:26−28)は、社会制度に与えられたのではなく、人間個人に与えられたのです。人間は、生活と思考のあらゆる分野において神の国を確立するように召されています。それは、神の法に従い、自らに対して神がお与えになった使命を遂行し、労働と倹約と十一税によって実現します。社会制度が人間の道具であることを止めて、人間の代わりに責任を担うおうとすることは極めて危険です。十一税を不当に要求することによって、教会は「十一税は神の税金ではなく、教会の税金である」と主張しているのです。聖書から離れた課税制度を採用することによって、国家は神からも離れているのです。教会も国家も密かに次のように主張しています。「王国はわれわれのものである。われわれはこの地上で神であり、神の所有物を御言葉によらずに思いのまま動かすことができる」と。

 その場合、課税は「盗み」となります。それが教会による十一税の横領であろうと、国家による非聖書的課税制度であろうと変わりありません。なぜ課税は盗みとなるのでしょうか。それは、何よりも、人々が泥棒だからです。神の御言葉を無視し、軽蔑した結果、彼らは自らのねたみや貪欲の奴隷となりました。課税は、ねたみの対象から財を奪い取る手段となりました。

 一度盗みが制度化されると、今度は国家が彼らに対して盗みを始めるようになります。しかし、それに合法的に反対することはもはや不可能です。神は彼らの不平(第一サムエル8:18)をお聞きにならないし、彼らを弁護しようともなさりません。というのは、神を動かすのは、利己心や、盗みに対する悲しみや、人間の悲惨ではなく、悔い改めだからです(第一列王記7:14)。

 課税は、搾取と盗みによって人間が偽りの神の国(実際は人間王国)を作るための手段です。この悪に対する回答は税金無用論ではありません。なぜならば、それは根本的な神学的問題を避けているからです。むしろそれは十一税や、労働、倹約、そして本質的に信仰と服従に対する反逆なのです。神は、課税であろうと税金無用論であろうと、人間的な方法を是認されません。課税の目的は社会の再建にあります。税金は、学校、病院、福祉、芸術や科学、そしてもっともっと多くのことのために用いられるべきなのです。

 税金には、神が定めた目的があります。十一税によってそれを実行するように求められています。十一税を捨て、現代の課税制度を採用することは二重の窃盗行為であるといえます。第一、それは神から奪う行為です。なぜならば、十一税は神の税金(マラキ3:7−12)だからです。驚くべき事に、今日多くの教会のメンバーたちは、「聖書は、国家に税金を納めよと述べている」と主張する一方で、十一税は律法的なので廃止すべきであるとも主張するのです。聖書は、神の税も国家の税もどちらも支払わなければならないと求めています。このことに疑問の余地はありません。また、神が、どの税を律法の中で規定しておられるかということも問題とはなりません。第二、現代の課税制度は盗みであり、国家は人々から財産を継続的に奪い取っています。それは二重の窃盗行為なのです。奪い取ることのできるすべての人から奪い取るのです。

 現代の課税制度は、神の宮や御言葉や神の御目的と無関係に存在しているので、入念に仕組まれた冒涜であると言えます。あらゆる領域において、現代人の目標と堕落した人間の目標は冒涜−つまり、神の御支配から離れた生活を作り上げること−にあります。この意味の冒涜は罪であって、現実ではありません。というのは、人間にとって神から逃れることは不可能だからです(詩篇139:7−12)。私たちの生活のあらゆる部分は、常に神によって完全に把握されているので、私たちは神の御支配から逃れることは絶対に不可能なのです。したがって、神の御目から見れは、根本的な盗みとは、人間が人間から盗む盗みでも、国家が人間から盗む盗みでもなく、人間が神から盗む盗みなのです。

 堕落の結果、人間は自分自身を神としたため(創世記3:5)、彼は悪を自分自身との関わりの中で見るようになりました。彼が出来心で神から奪って、こう言ったとしましょう。「神は私のわずかな十分の一など必要としないだろう。」しかし、 自分にとって必要ないものであっても、何かを盗まれれば、だれであっても怒るのではないでしょうか。盗みとは自分自身に対する罪です。それは神についても同様です。すべての罪は、とくに十一税の不払いのような神に対する直接の罪は、神の御人格に対する罪です。国家による冒涜的な課税制度は、神に対する罪であり、もし国民が十一税を納めないのであれば、彼は神の目から見て泥棒なのです。彼は、神に対して罪を犯しています。そして、神は彼のことを犠牲者とは見なさず、むしろ犯罪者と見なされます。神の裁きは国家とその民とに下ります。主がサムエルに告げられたとおり、「それはあなたを退けたのではなく、彼らを治めているこの私を退けたからである。」(第一サムエル8:7)




1. "56 TAXATION AND THEFT" R.J. Rushdoony, Law and society, pp.271- 273.Vallecito, California: Ross House Books,1982
2. Bruce Goldman, Robert Franklin, Kenneth Pepper: "Your Check is in the Mail," p.18. New York: Warner Books,(1974)1976.
3. Ibid., p.31.
4. Ibid., p.22f.
5. Robert A.Nisbet: The Sociological Tradition, p.10. New York: Basic Books, 1966.





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