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進化論問題

 


>( 1)「進化論」は「科学に基づく論理体系」を提示する。
>これは「事実の裏付けがある」部分と、「仮説でしかない」
>部分がある。
>今の時点でこれらの「仮説」に対して様々な立場(進化論の
>内部で異なる仮説を持つグループ)からの反論はあるが、「創
>造論側の反対意見が正しいことを立証した事実」はない。

>( 2)「創造論」は「論理的体系」を提示する。
>しかし、この体系を「否定する事実」は沢山あるが、「創
>造論が正しいことを証明する事実」はない。(創造論でも説明
>できる事実はあるのだが。)

>「進化論」を「信仰」と呼ぶことはできないと思いますが…。

 

 ん〜〜。あなたと議論したことがまったく無駄だったということでしょうか?

 これだけ執拗に思考を左右する教育の力ってすごいものですね。

 

 

 さて、進化論が事実の裏付けとして提出している部分ってのは、あの「胃下垂は四つ足歩行していた動物が直立歩行したために無理が生じて起こる病気だ。」という類のものなのでしょうか。

 それならば、すでに何度も申し上げたように、これは「裏付け」ではなく、「解釈」なんです。

 「裏付け」と呼べるものにするためには、四つ足歩行から直立歩行に至る人間の胃のサンプルを集めて、そこに見られる病気の発症頻度の推移をデータで提示しなければならない。

 何度も申し上げているように、「ここに単純な生物(A)と複雑な生物の化石(B)があります。(A)から(B)に進化したのです。」っていう類はあくまでもある事実についての「解釈」であって、「証明」ではない。また、そこにおいて、それらの化石は「裏づけ」ではない。あくまでも「解釈のツール」でしかないものを「裏づけ」と呼んではならない。

 

 人間に残る尻尾の痕跡もそうです。もしそれが本当に尻尾であるならば、まず(1)尻尾を生やした人間の化石なり、実物なりを提示して、(2)それがどのように尻尾を落としていったかという推移を提示しなければならない。この二つを明確に示すことができなければ、そもそもそういう人間がかつていて、それが現在の人間に進化したのか、という疑問に答えたことにはならない。「尻尾に似ている突起物でしょ?」と言われればオシマイです。

 また、もしその尻尾人間の化石が見つかったとしても、現在の人間とどのような関係があるのか、明確に示す証拠を挙げなければ進化したということにはならない。そういう人間らしき動物がいたが、ある時絶滅した。現在の人間は、これとはまったく異なる種から進化した、という可能性もあるわけです。

 

 受精卵が胎児に至るまでにこれまでの人間が辿ってきた進化の跡を示しているいう説も、「そのように見えるだけだ。」と言われればこれまたオシマイです。もしそれを「裏づけ」と呼びたいならば、本当に受精卵から胎児に至る流れを示す化石なり実物なりの証拠を提示しなければならない。

 (因みに:でも、どうして、胎内においてそのようなことをくり返す必要があるんでしょうかね・・・。不思議です。)

 

 RS氏の「細胞進化の説明」も、そういう解釈がありますというだけであって、証拠ではない。単純な細胞と複雑な細胞を並べて、単純から複雑へ進化したというのは、進化論のパラダイムに基づく解釈であって事実の証拠でもなんでもない。

 

 進化論者は、このように「解釈」と「証拠」とを混同することが多い。(*)

 

 

(*)さて、ここでいつものように、「じゃあ、創造論者の説も『解釈』ではないんかい?」と言われそうなので、つけ加えておく。

 

 キリスト教は、創造をドグマとしてとらえているので、それを証明することをしない。それは前提−−つまり信仰−−である。

 

 「あっ!ずるい。自分だけ信仰に逃げ込むなんて。」と言われるあなたはまるでわかっていない。

 

 キリスト教とは異なり、進化論者は、「自分の説は科学的に検証できるものである」と「非信仰宣言」をしているのである。だからそこにおいて、突っ込みを入れられることは覚悟しなければならない。「信仰じゃないんだったら、これはど〜なの。証拠見せて。」ってね。それで答えられないと、「証拠ないの?それじゃああなたも立派な宗教者じゃないですか。」と言われる。だから、進化論が科学としての体裁を保ちたいならば、論証は避けることができない。

 

 それに対して、「信仰宣言」を出しているキリスト教の「創造教理」は科学の検証を受ける義務はない。

 

 信仰宣言を出すことがずるい手口であると結論することはできない。そういう結論を出す人には、「あらゆるものは科学的検証に耐えなければならない。」という「信仰」がある。

 

 こういう「信仰」は300年も前に近代哲学は棄ててしまったのだ。

 

 また、キリスト教が進化論を科学によって批判するならば、同じ基準を自分にも適用するのが議論者としての務めじゃないか、という批判者もまるでわかっていない。

 

 「相手を科学によって検証し、批判した」→「自分も同じように科学によって検証しなければならない」という理屈は成り立たない。

 

 議論というものは、「自分が立てた前提と矛盾しているかどうか。」について争うのであって、「どのような前提を立てたか。」は問題にならないのである。

 

 「議論の手続き」という点で(常識とか倫理とかにおいては別ですぞ)、「麻原は全能神」であるという前提を立てることには何ら問題はない。どのような前提を立てるかはその議論者の自由である。しかし、もし彼が、「麻原は神である」ことと矛盾したことを述べたら、そこにおいて突っ込みを入れられる。それに答えられなければ、その前提の修正を迫られる。

 

 キリスト教の創造論を否定したいならば、科学的な証拠など無意味である。猿らしき動物→オラウータン→ゴリラ→猿人という化石を並べられた場合、進化論者は、「ほら、進化ですよ。」と解釈し、創造論者は、「ほら、万物を創造された神のデザインですよ。」と解釈する。

 

 科学万能主義を自唱する進化論者は、こういった解釈で留まっていると批判を受けるが、そのように主張していない創造論者は、こういった解釈で留まることになんら批判される所以はないのである。

 

 もし進化論が、「解釈」だけに留まり、「証拠」を提示できなければ、彼等も宗教者の仲間入りなのである。