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質疑応答集


 


進化論:社会秩序を支えられなれない謬説



(Q)あなたが批判しているのは、進化論の中でも「自然選択説」だと思います。自然選択説は、老人や障害者を虐待することを正当化するために作られた理論ではありません。自然選択説は、環境に適した生物が生き残り、子孫を残し、その結果生物が進化するとしています。つまり、優れた生物が生き残ることによって進化が起こるのではなく、環境に適応した生物が生き残ることによって生物が変化するのです。それゆえ、退化も進化のうちに含まれます。老人や障害者が環境に適応できないならば、その環境を、彼らが適応できるように変化させればよいのです。


(A)すでに掲示したこととほとんど重複しているので、なるべく簡単にご説明いたしたいのですが、私は、進化論の自然選択説が老人や障害者の虐待を正当化するための理論だとは述べていません。良識ある生物学者の方々がそのような理論を作ろうとしているとは私にはどうしても思えません。そうではなく、そのような理論の前提に立ったときに、はたして肉体的社会的弱者を保護することにどのような理由付けができるのか、そのような理由をもちだすことが可能なのか、ということを述べているのです。

 ここにおいて、優れているか、適しているか、はあまり重要な区別ではないと思います。とにかく、環境に適応している人々が環境に適応できなかった人々をなぜ助けなければならないのか、その理由をどのようにしてこの自然選択説から導き出すことができるのか、という点なのです。

 聖書によれば、神は、律法において、「あなたの隣人を、あなた自身と同じように愛しなさい。」という基本原則があります。すべての律法は神を愛することと隣人を愛することに集約できる、とキリストは述べています。キリスト教において、社会的・肉体的弱者を助けることにはこのように理由があるのです。自分の創造者である神がそのように命令したので、私たちは弱者を助けなければならないのです。

 しかし、ご教示くださった進化論の立場によれば、なぜ助けなければならないのか、私には理解しかねます。助ける必然性が特にないのです。良心的な人々が自発的にそれをやればよいことであって、自分を越えた法制定者がいるわけでもなく、自分を造った創造者が命令しているわけでもないのですから、別に自分の益にならなければ助ける必要はないのです。そして、弱者を虐待する人々がいても、自分の家族なり友人や愛する人々が虐待されているのでもなければ、そのような行為を特に非難する必要はないわけです。無神論進化論によれば、神が人間を創造したわけではないので、神に対して「弱者を救済する道義的責任」はないのです(道義ということに価値があるということ自体進化論的存在論は証明できませんが)。ですから、進化論の自然選択説なる考えを前提とした場合、弱者虐待を制止できるだけの理由を提供できないので、それは、人間社会を秩序立てていくには不完全な立場であると、述べているのです。







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