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進化論:自殺的信仰





 子どもに「悪いことをしなさい」と教える親はいません。しかし、進化論を教えることは、子どもにそのように言うのに等しいのです。なぜならば、どの世界観も、(1)認識論(2)存在論(3)倫理から成り立っており、これらは互いに連動しているからです。 認識論は存在論に影響を与え、倫理は存在論によって影響を受けます。また、この逆もあります。「宇宙は、人格神によって作られたのではなく、偶然の積み重ねによって生じた。」と教えることは、たとえば「だからだれとでも好きな時に好きな人と寝てもかまわない。」と教えることを意味しているのです。進化論を教えておきながら、「どうしてこのような子どもになったのか」とは言えません。存在論における誤りは、かならず倫理においてその実を結びます。まだ倫理的基盤としての儒教や仏教やキリスト教等の世界観が残っている親の世代では、存在論における間違いはまだはっきり現れません。しかし、時間がたつと、子どもや孫たちが、親の世代が作り上げた信条を実践するようになります。日本人は思想を軽んずる傾向がありますが、「思想は必ず実を結ぶのです」。

 進化論は、偶然を主体とし、ものごとに意味を与える人格神を否定するので、虚無主義です。しかし、虚無主義者は、絶対に虚無主義を実生活の中で貫徹することはできません。なぜならば、この世の経済は、虚無主義的生き方を許さないからです。社会は実績に応じて人に報酬を与えます。だから、意味を生み出さない労働をする人にお金を払わないのです。虚無主義者が虚無的な生き方を貫徹しようとすれば、乞食をするしかありません。いや、乞食でも、通行人のポケットからお金を引き出すために、あわれみを誘うような演技をしなければならないでしょう。だから、虚無主義者は、虚無主義を信じているふりをしているにすぎないのです。実際は、自分が信じ、また、伝えている虚無主義を本当は信じていないのです。なぜ、彼はそのような演技をするのでしょうか。それは、最終的な決断を避けているからです。もし、進化論を否定するならば、自分が行っていることを否定し、神の存在を信じ、悔い改めてキリストの救いを受け入れなければならなくなるからです。だから、進化論というまことしやかな作り話の陰に隠れようとするのです。

 しかし、彼は遅かれ早かれ結論を出さなければなりません。なぜならば、自分が教えている虚無主義の果実を、自分の次の世代や次の次の世代が結ぶからです。倫理を生み出さない思想を教えた者は、倫理を持たない子供たちによってしっぺ返しを食らうのです。






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