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進化論は虚無主義





 なぜ進化論は虚無主義なのでしょうか。まず、虚無主義を定義します。広辞苑を見ますと、虚無主義とは「真理や道徳的価値の客観的根拠を認めない立場。」とあります。聖書的キリスト教は、真理や道徳的価値の客観的根拠を神の創造に置きます。つまり、「神が万物を創造され、それに意味を付与された、だから人間は、真理や道徳的価値の根拠を神に求め、神の意見を聞かなければならない」と考えます。しかし、進化論はこの創造を否定するのですから、万物の価値を神の意見によって決定するという根拠を人間から奪うのです。人間や世界は、神によって作られなかったという前提に立てば、「神がこのように述べておられる」と聖書がいくら語っても、「あんただれ。関係ないでしょ。」となります。自分の親でもない人から、「おまえも月給取りなんだから、家に仕送りしなさい。」と言われても、「なぜあんたに仕送りしなきゃなんないんだ。」と答えることができます。なぜ、神が人間に命令し、万物の価値を教え、人間に道を示すことができるかというと、それは、「神が創造者だから」という前提があるからなのです。これゆえ、キリスト教において、創造の教理はきわめて重要であり、創造を否定するキリスト教は、そこから神と人間の絆を主張できなくなります。創造者ではない神は、人間に法を与えることも、法を破った時に彼を罰することも、そこから救うこともできません。つまり、神が創造者でなければ、ただの「素晴らしい教えを垂れるアドバイザー」でしかないのです。これは、宗教ではありません。主権者とは、人間に対して絶対的な命令権と支配権を持つのです。裁くことができない神は、神ではないのです。また、裁くことがなければ、この世に価値は存在しないことになります。価値と刑罰とは切っても切れない関係にあり、価値だけが存在するということはありません。殺人者を罰しない社会は、人間のいのちを尊んでいない社会です。

 およそ価値とは、創造の教理なくして存在しません。あらゆる社会にとって、価値を設定する根拠は、創造者の意見にあるのです。

 しかし、ある人は、このように言うかもしれません。「いや、創造者ではなくても、自分の社会を管理している権力者の意見が真理や道徳的価値の客観的根拠だと言える」と。しかし、これは、重大な問題を含んでいます。というのは、為政者の意見が根拠であるとすることは、結局相対主義になるからです。つまり、絶対的な道徳というのは存在せず、その時代と地理において限定された範囲内で力を有する者の意見が、正しいとすると、では、ナチスはどうなのか、「ユダヤ人や病人や社会に役に立たないと思われる者を虐殺することは正しい」ということになってしまうのです。これは、「客観的根拠を認めている」とは言えません。

 ある女子高生が売春をして、親に「だれにも迷惑かけていないんだからいいじゃん。」と言いました。彼女に対する唯一の解答は、「あなたを造った神が『姦淫をしてはならない』と言っている」です。これ以外の解答は、真の意味で解答になっていません。多元的な価値観を認めることは、価値を認めないことなのです。時代によって、人によって、住んでいる社会によって変化する価値観は、客観的根拠を持つ価値観と呼ぶことはできません。そのような価値観を虚無主義と言うのです。




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