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社会ダーウィン主義と進化論



(Q)|(実際進化論者は劣等民族の絶滅を図ったことがありましたが。)

要望ですが、社会ダーウィニズムと進化論は別の概念であるとされていますので、区別をお願いします。

一般に、自分の立場と離れた立場については違いが見えにくくなるものですので、批判の際には似て非なるものを批判してよしとすることがないように注意する必要があります。

(A)社会ダーウィニズムと進化論は別の概念であるということは分かりました。それでは、社会ダーウィニストは、進化論者ではないのか、というと生物学の進化論者であることは確かですね。生物学の進化論からヒントを得て、それを社会問題に適用していったわけですから。したがって、社会ダーウィニストによって行われた、ベルギー軍によるコンゴ人虐殺やヒトラーによるユダヤ人虐殺、第2次大戦中のロシア人虐殺など、生物学の進化論とは無縁であるとは言えないですよね。

 もちろん、生物学の進化論者が全員社会ダーウィニストによるこのような行動に賛成しているわけではないことは明らかです。しかし、そのような良識のある方々を含む進化論を奉ずる方々の現実の生活について、ここで問題にしているのではなく、そのような方々が唱えておられる進化論信仰に立って首尾一貫して行動するならば、一体どのような行動が生まれてくるか、が問題なのです。(*)

 「神が生命を創造したのではなく、偶然に生命は誕生した。」と信じるならば、では、なぜ、寝たきりのご老人を邪魔だから殺してしまえ、と言ってはならないのか。そのように主張する人々をなぜ非難すべきなのか。なぜ、知恵遅れの子供たちを抹殺してはならないのか。実際にこういったことをやったヒトラーは自分の世界観に忠実だったとも言えるわけです。自然主義者マルキ・ド・サドは、自然を規範にして、動物が行う同性愛、近親相姦を人間も行うべきだと奨励しています。

 自分が信じている世界観はそれを首尾一貫したものにしなければ、世界観とは言えないのではないでしょうか。ある時は進化論者、結婚する時はクリスチャン、葬式になると仏教徒、元旦には神道信者という行動が許容されるならば、私は、その人を決して進化論者とは呼びません。彼は進化論者でも、無神論者でもありません。彼は、実用主義者なのです。自分に益するものが最優先されるべきだと考えているので、彼は俗流功利主義者であるとも言えます。

 よく「おれを侮辱するのか。」というメールが来るのですが、けっして、私は個人的にその人を侮辱しているつもりはありません。私が関心があるのは、思想なり世界観なりの一貫性なのです。一貫性がないということは、その思想に問題があることを意味しているわけで、そのような思想は早く捨ててしまった方がよいということなのです。

(*)進化論は純粋に生物学的な問題であって、世界観とは無縁であると主張される方もおられますが、生物の起源について扱っているのですから、当然存在論の問題に触れるわけで、世界観とのつながりは避けることができないのです。

 




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