法と社会



御国の鍵


R・J・ラッシュドゥーニー



 数年前、筆者は、聖書がすべて神の御言葉であると信じているひとりの「福音主義クリスチャン」と会った。彼の話に私は度肝を抜かれてしまった。彼は、「神の御心を知ることは大変難しい」と言った。そこで、私が「御心は神の法の中にあらわされているので、簡単に理解できる」と答えると、「われわれは恵みの下にいるのであって、律法の下にはない」と言った。「どうしてそのようなことが言えるのですか」と尋ねると、「主はより高度で、より単純な道を備えてくださったので、われわれは今やこの恐ろしい律法の重荷から解放され、それを守る必要がなくなったのだ」と述べた。そこで、次のように尋ねてみた。「もし、今あなたが神の御心を知ることが難しいとおっしゃるなら、どうしてその道が律法より単純な道であるということができるのでしょうか」と。しまいに彼は私に向かって、「あなたは聖書がまったく分かっていない」と言ったのである!

 私は、ある「福音的」牧師のラジオ番組を聞いていたときにこの会話を思い出した。彼は、服役中の男性の手紙を読んでいた。男性は「キリストを受け入れており」、釈放間近であった。かなりの数の聖句を暗記し、信仰に励んでいる様子がうかがえた。「自分がもう二度とこんな場所にくることがないように、主が御心を示してくださり、何が正しいことであるかはっきり教えてくださるように祈ってくれ」と視聴者に嘆願していた。私は驚きを禁じ得なかった。聖書を読みながら何が善であるかを知らないなどということがはたしてあるのだろうか。神が「これは善である、これは悪である」と言われるのに、本当にその通りであるか疑うことができるのであろうか。

 死刑支持論者であるという理由で、ここ2年間私は「聖書信仰」の教会で説教することが許されなかった。このほかにも数え上げたらきりがない程多くの似たような体験をしてきた。

 どうして教会の中にこの様に無律法主義がはびこっているのだろうか。どうして教会は、神がお定めになった善悪の基準を素直に受け入れることができなくなってしまったのであろうか。いやそれどころか、どうして教会は神の律法を激しく否定するようにさえなってしまったのだろうか。

 主はこの理由を明らかにされた。主は、律法学者やパリサイ人たちは「彼らの言い伝え」によって「神の命令を無にしてしまった」と言われた(マタイ15:9)。彼らは神の律法を捨てて人間の律法を作り出したのである。この人間の律法によって彼らは当時の社会の神々になったのである。

 「御国の鍵」は神の律法を指している。神の律法は神の王国への鍵である。鍵を所有するということは、神の律法を解釈し説明する特権を持つ、ということを意味しているのである。もし誰かが誤った解釈をしたり、人間の法を神の法とすり替えるならば、その人は人々が御国に入ることを妨げているのであり、神の王国の代わりに別の王国−即ち人間の王国−を築いているのである。主はこのことを非難して次のように言われた。「しかし、あなた達偽善の律法学者、パリサイ人とにわざわいあれ。なぜなら、あなた達は人々が天の御国に入ることができないように門を閉ざし、自分もそれから入らず、入ろうとする人の重荷をも負おうとしないからだ。」(マタイ23:13)

 真心から神を敬う人は、神の律法がつなぐことをそのとおりつなぎ、神がみ恵みによって解くようにお命じになることをそのとおり解くのである(マタイ16:19)。

 第一に、次のことが明らかである。忠実にみ言葉が説き明かされる教会では、神のみ力、律法、正義、み恵み、あわれみがほめたたえられるのである。御国の鍵の権威を正しく用いる人は、人々に対して神の御国の扉を開き、彼らをその中へ導き入れるのである。御国の鍵の権威を正しく用いることによって人は神の御国を拡大する御国の建設者となることができるのである。

 第二に、鍵の権威を正しく用いることができない人は無律法主義者である。無律法主義は神の律法を否定し、パリサイ主義と同様に、神の本当の律法を何か他の律法にすり替えて、「これが神の律法である」と言い出すのである。無律法主義は常に「主のみ名によって」やって来るが、その本質は反キリストである。

 第三、無律法主義の教会は、神の法を否定しているのであって、法それ自体を否定しているわけではない。無律法主義はあらゆる法と名の付くものに反対しそれを否定しようとする立場ではない。それは依然として何らかの法を主張しているのである。その法とは人間の法である。無律法的教会の教会法や規則は神の法ではなく、教会の法である。歴史的に見て無律法主義がはびこるところではどこでも、教会の権力が肥大化する。教会は法源となり、その法体系の中で神となるのである。そして、教会は無律法主義を防御することに執念を燃やし、神から法を奪い取って武装解除しようと躍起になるのである。

 第四、やがて教会は非聖書的かつ無秩序な聖霊の教理を強調するようになる。無律法主義を擁護するために聖霊を利用するカリスマ運動はこの例である。そこでは、聖霊は、律法よりもさらに「高く」さらに「霊的な」道であると強調されるのである。

 第五、他方、新しい法源となり、人々の心をコントロールし始めた教会の下で、人々は、がんじがらめに縛られ、奴隷となる(マタイ23:4)。人間は法なしでは生きられない。もし、神の律法が生活の規範として拒絶されれば、人間の律法がそれにとって代わるのである。神の律法が軽んじられ否定されるならば必ず、教会と国家の権力が肥大化するのである。

 第六、今日、教会も国家も、律法学者やパリサイ人のように「天の御国の門を閉ざし、人々がそこから入るのを妨げているのである」(マタイ23:13)。この事実を直視できない人は、現在の危機的状況の本質も問題の大きさも理解することができない。解決は、革命にも反逆にもなく、生まれ変わりにある。つまり、クリスチャン一人一人が御国の鍵を十分かつ速やかに用いることである。われわれは「至高者であり、万物を統治し、法を与え、われわれを救い出すお方は神おひとりなのだ」ということを心に銘記しなければならない。御心を知ることは可能である。神はそれをみ言葉を通して啓示されたのである。問題は、知識の有無にあるのではなく、服従するかしないかにある。つまり、解決は、信仰と信仰的良心を正しく働かせるかどうかにかかっているのである。


"72 THE KEYS OF THE KINGDOM" R.J.Rushdoony, Law and society, pp. 333-334. Vallecito, California: Ross House Books,1982.の翻訳。

This article was translated by the permission of Chalcedon.



 



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