法と社会



偶像崇拝


R・J・ラッシュドゥーニー



   筆者はこれまで夫婦喧曄をしているカップルから次のような愚痴を何度も聞かされてきました。「私が一日中大変な思いをして仕事から帰ってきても、妻は一度だってキスをして迎えてくれたことはありません。私と会っても嬉しそうな顔ひとつしません。」と言う夫。「夫は毎日帰ってきても私にキスをしようともしません。彼が家に持ち帰るのはただ疲れと不機嫌だけです。」と妻。解決は簡単です。まず自分の方から愛情を示し、キスをして喜んで相手を迎えることです。しかし、このような助言は二人の耳には入りません。すぐに言い返されてしまいます。「私たちの関係はあまりにもこじれすぎていて、そのような単純な方法では到底解決できません。」確かにこれは事実です。というのも、これには偶像崇拝の問題が絡んでいるからです。人間にとって、もっとも大切な偶像は自分です。彼がもっとも熱心に崇めているのは自分自身なのです。原罪の本質は偶像崇拝にあります。誘惑者の目的は、万人が自分自身を自分の神として崇めるようになることでした。つまり、自分にとって何が善であり何が悪であるかを自分勝手に決めさせることが彼の目的でした(創世記3:5)。

 偶像崇拝には多くの側面がありますが、その基本は「自分と自分の意思に対する礼拝」です。新約聖書において、偽善は偶像崇拝と密接に関係しています。七十人訳聖書では、godless[神を信じない]の訳語としてギリシャ語hypocrites[偽善]を二度使用しています。キリストはパリサイ人の偽善に注意を喚起しました。彼らの偽善は次のようなものでした。

自分の欠点(マタイ7:5)や神の御業(ルカ12:56)、真の価値(ルカ13:15)に対する盲目と、人間の伝承に対する過大評価(マタイ15:7:マルコ7:6)、神の命令の完全無視(マタイ23:14、15、25、29)、自分のひけらかし(マタイ6:2、5、16)。

私たちはみなアダムの子孫なので、偽善は私たち全員に共通する欠点です。もし偽善を非難する主の御言葉をもっぱらパリサイ人に向けられたものであると考え、自分とは無関係であると見るならば、私たちは主の真意を十分に理解することはできません。とくに、この事実を理解せずに裁きに関する主の御言葉を理解することはできないのです。主は裁くことを禁じておられません。事実、彼は裁きなさいと命じておられます。「裁くなら正しい裁きをしなさい」(ヨハネ7:24)。マタイ7章1〜5節において、主は偽善的な裁きを非難しておられます。

さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうしていうのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。 偽善者たち。まず自分の目から梁を取り除けなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。


このテキストからいくつかのことが明らかです。第一、「この話しは、偽善者に向かって語られたものであり、偽善に関する教えである。」ということを主は明らかにしておられます。一般に、この箇所は裁くことそのものが悪であるということを示していると解釈されていますが、実際には、それは偽善と偽善者の裁きについて教えているのです。

第二、主は偽善者とは嘘吐きであるとは言われません。実際、兄弟の目の中にはちりがあります。私たちは「兄弟の目の中のちりを取り除くためにはっきりと」見えるようになる必要があります。ここで主が非難しておられるのは偽証罪ではなく、偽善的な裁きなのです。

第三、偽善者は雄弁です。彼は「口から銃を撃ち放つ」のです。彼は欠点を見付けます。彼の攻撃は明確で、鋭く、そして、知的です。偽善者は証拠を偽造したりはしません。今日、多くの学者はパリサイ人の肩を持ち、彼らに偽善者の汚名を着せたくないと感じています。たしかに、パリサイ人は非常に多くの面ですぐれていました。時代に対する彼らの観察は鋭く、非常に道徳的でした。

しかし、あらゆる偽善に伴う問題は、それが批判的な発言に終始するだけで、信仰的行動に移らないという点にあります。主は、兄弟の目の中のちりを取り除くべきであると、はっきりと語っておられます。偽善者はちりを至る所で発見しますが、ただ非難して立ち去るだけです。第四、マタイとルカにおいて、主は「愛とは偽善的裁きの反意語である」と述べておられます。ルカ6章31〜36節において、裁きについて語る直前に、恵みによる愛について教えておられます。そして、37〜45節においては、偽善的ではない生活の意味について説明されます。

自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。自分を愛する者を愛したからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪人たちでさえ、自分を愛する者を愛しています。自分に良いことをしてくれる者に良いことをしたからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪人たちでさえ、同じことをしています。

返してもらうつもりで人に貸してやったからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。貸した分を取り返すつもりなら、罪人たちでさえ、罪人たちに貸しています。ただ、自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたがたは、いと高き方の子どもになれます。

なぜなら、いと高き方は、恩知らずの悪人にも、あわれみ深いからです。あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。

赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。

イエスはまた一つのたとえを話された。「いったい、盲人に盲人の手引きができるでしょうか。ふたりとも穴に落ち込まないでしょうか。弟子は師以上には出られません。しかし十分訓練を受けた者はみな、自分の師ぐらいにはなるのです。

あなたは、兄弟の目にあるちりが見えながら、どうして自分の目にある梁には気がつかないのですか。自分の自にある梁が見えずに、どうして兄弟に『兄弟。あなたの目のちりを取らせてください。」と言えますか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうしてこそ、兄弟の目のちりがはっきり見えて、取りのけることができるのです。

悪い実を結ぶ良い木はないし、良い実を結ぶ悪い木もありません。木はどれでも、その実によって分かるものです。いばらからいちじくは取れず、野ばらからぶどうを集めることはできません。良い人は、その心の良い倉から良いものを出し、悪い人は、悪い倉から悪いものを出します。なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです。

ここはとくに無律法主義者たちが好んで引用する箇所です。彼らはこの部分を聖書の他の部分から切り離して、好き勝手な解釈を施しています。しかも、35節には誤訳があり、そのせいでそれはギリシャ語本文ではなく、ウルガタ聖書の焼き直しになっているのです。「返してもらうことを考えずに貸しなさい。Lend,hoping for nothing again」は、グツドスピード訳のように、「彼らに貸しなさい。けっして失望せずに。」2 と訳すべきだ、というのです。

 主がここで言われていることを理解するには、次の点に気づかなければなりません。第一、「お返しの倫理」では足りないということ。ここでは、黄金律の歪んだ解釈が非難されています。ある人々はこれを「他者があなたにしたのと同じように彼らにしなさい」つまり、「お返しを期待して何かを行いなさい」という意味に解釈するのです。ある国の人々は結婚祝いを玄関で値積みし、後でまったく同じ値のものをお返しとして贈ります。

32〜34節において、主は、三つの例を引用することによって、お返しの倫理を否定しておられます。35節において「あなたの敵を愛し、彼らによくしてやり、お返しを期待しないで彼らに貸しなさい」と命令されています。この時、主は、お返しの倫理に対して御自身が強い非難の念をお持ちであることを強く印象づけておられるのです。

主は私たちに愚かになれと命じておられるのではありません。また、私たちに霊的フランシスコ修道会会員になるための指針を与えておられるのでもなく、ただ、お返しの倫理を激しく非難しておられるのです。主はあの富める青年に持ち物をすべて売り払うようにお命じになりました。持ち物を売り払うことが信者の義務の一つであったから、というわけではありません。

むしろ、自分自身と財産の問題が、この青年にとって、自分の信仰の基礎と忠誠心の問題に真正面から取り組む契機となることを望んでおられたからでした(マルコ10:17〜22)。同じように、主は、お返しの倫理にこだわるすべての人が「主なるキリストのために自分を捨てよ」との御命令と直面することを望んでおられるのです。

 第二、偽善者はお返しの倫理に固執します。それは、自分を第一にし、主を第一としていないからです。私たちは報いを人からではなく、天の父から受けます。私たちが天の父のために何かをするならば、「その報いは大きい」のです(35節)。もし報いを人から期待するならば、私たちは彼らが自分によくしてくれない時に彼らを裁きます。「彼らは私たちの期待にそむきました。私たちを利用したり、私たちに対して配慮の欠けたことをしました。」もし私たちがそのようなことで人を裁くならば、私たちは自分を第一としているのです。もし私たちが主の下僕であるならば、私たちは感謝と報いを主から期待するはずです。それは、私たちのわざが神のためであって、人のためではないからです。

 第三、偽善者は真理を語ります。つまり、彼は人々を正確に評価します。しかし、彼はあたかも自分が神であるかのように裁いているのです。裁きの座に座っておられる方は神であって人間ではありません。私たちは神の裁きの座を奪ってはならないのです。37節の意味は、「裁くな。神があなたを裁くことがないために」です。他人のどのようなささいな失敗や罪でも目ざとく見付けてそれを裁く人は、逆に神から自分のあらゆる罪を目ざとく見付けられて裁かれるのです。彼らの裁きがいかに正確であろうとも、それを義なる裁きと呼ぶことはできません。それは、あら捜しの裁きであり、偽善的な裁きです。このような裁きは兄弟のちり、つまり兄弟の罪を取り除くことを求めるのではなく、その罪によって兄弟を非難することを求めるのです。それは愛や忍耐や慎みから出てくるものではなく、嫌悪や忌避の気持ちの現れなのです。

 第四、私たちは、天の父が私たちに報いてくださると教えられていますが、その一方で、もし私たちが主の戒めを従順にしかも兄弟愛をもって守り行うならば、人も私たちに報いてくれるとも言われています。「人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう」(38節)。私たちは、お返しの倫理ではなく、このような「寛大の倫理」を持っています。お返しの倫理は、人々の間に、また人と神との間に不愉快な心理的距離を作りますが、寛大の倫理は、神と人との距離を縮め、人々の間に親密な交わりを作ります。といっても、それが罪人を「救」ったり「変え」たりするからではなく、それを通じて神の御目的が実現するからなのです。

また、それが私たちの人生と他者の人生において神が備えておられる目的に合致するからなのです。偽善者は、他者を裁くとき、主を基準とするのではなく、自分を基準とします。彼はこのようにして現実を歪めるのです。これゆえ、偽善は偶像崇拝の一面であると言われるのです。偽善的な裁きは私的であり、神学的ではありません。道徳的な罪を取り扱う(つまり、他者の目からちりを取り除く)場合でさえそうなのです。偽善的な裁きにおいて、審判の基準は相手に対する個人的な苛立ちや困惑にあるのであって、互いの過ちを正し合ったり、互いを罪から救い出そうとする努力にあるのではありません。パウロはこのことを次のようにはっきりと述べています。

それゆえ、主の囚人である私は、あなたがたにお願いします。どうか召しにふさわしく歩んでください。謙遜を尽くし、忍耐を持って、愛の内に互いに慎み合ってください。平和の絆によって霊の一致を保つよう努力してください。(エペソ4:1−3)

この箇所を誤って解釈しないために、次のことを付け加えておく必要があります。すなわち、私たちはこれらの節を、異端を見過ごしたり、彼らの誤謬を許容したり、その予防を怠るための口実にしてはならないということです。これらのことは第2ヨハネ9−11節において厳しく禁じられています。基準は私たちの親切心にではなく、主と主の御言葉の上に置かなければなりません。

どのような形であっても、親切心や愛情を御言葉よりも優先させることは偶像崇拝なのです。人を裁き非難する傾向の強い人もいれば、何でも許してしまう人もいます。しかし、どちらも信仰の人と言うことはできません。どちらも神の御言葉よりも人間的気質に支配されているからです。偶像崇拝はこのような気質から生まれるのです。第一と第二の戒めは偶像崇拝を禁じています。偶像崇拝を文字通りの偶像脆拝行為に限定してしまう人は、聖書を誤解しています。私たちは、パウロが貪欲を第一の偶像崇拝と定義したことを忘れてはならないのです(ガラテヤ3:5)。



1. H. L. Ellison, "Hypocrite", in J. D. Douglas, ed.: The New Bible Dictionary, p. 550.
2. 参照・S. MacLean Gilmour, "Luke," in The Interpreter's Bible, vol. VIII, 12lf.


"104 IDOLATRY" R.J.Rushdoony, Law and Society, pp. 448-452. Vallecito, California: Ross House Books,1982.の翻訳。

This article was translated by the permission of Chalcedon.






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