社会秩序の基礎





R・J・ラッシュドゥーニー


 あらゆる社会秩序は、信条や、生命と法の概念の基礎の上に成り立っており、社会活動の中で、その根幹に存在する宗教を体現する。文化とは宗教が形を取って現れたものであり、ヘンリー・ヴァン・ティルが言うように、「人々の宗教はその文化において表現されるので、クリスチャンはキリスト教的社会組織以外に満足できないのである。」2  社会組織が攻撃される場合、同時にその宗教も攻撃される。
 社会の基本的な信仰はその信仰の枠組みの中で成長する。したがって、その枠組みを超越した、その基本的な信仰自体に対する攻撃は、革命行為となるのである。マルクス主義者はこの点において彼らの論敵よりも賢明である。彼らは彼らの組織に対する敵意を反革命的行為と見なし、彼らの体制に対する敵意と見なすのである。社会の生命はその信条である。時代に取り残され、死につつある信条は廃棄され破壊される運命にあるのである。しかしながら、健全な信条もすべて絶え間のない攻撃に晒されるのである。
 文化が、信条の基礎を弁証し発展させることを怠るならば、それは、自分の心臓を敵の前にさらけ出すようなものである。西洋文明は、聖書的キリスト教の基礎的信条に対して無関心であったために、今日死に直面しており、ヒューマニズムとの生死をかけた戦いの直中にいるのである。

 それゆえ、社会秩序の基礎をはっきりと理解し、弁護するために、それについてよく調べる必要があるのである。

 第一に、社会秩序には必ず、その信条を成り立たせている基礎が存在する。

  すべての法秩序は、倫理体系を成文化したものであり、また、その成文化したものを基礎として成り立っているのである。すべての倫理は、「究極的関心事」の一つ−−宗教−−を前提としている。宗教は、その大部分は非有神論的である。しかし、それにも拘らず、そのすべてが何らかの倫理体系の基礎となっているのである。倫理的秩序は宗教的秩序の一側面である。ほとんどの宗教は有神論的ではなく基本的にヒューマニズム的である。構造的に見て、宗教は二つの大きな主要な類型に分類することができる。それは、有神論的宗教と政治的宗教である。
 有神論的宗教において、神は倫理と法の源である。宇宙秩序は神が与えたものであり、絶対である。そして、人間の秩序は神の誤りのない御言葉である聖書によって整理され分類されなければならない。政治的宗教においては、政治が倫理と法の源である。アリストテレスは政治について書いたので、倫理についても関わるようになったが、彼の倫理とは政治秩序のための倫理であった。
 アリストテレスにとって倫理とは、基本的に、究極存在の超越性の原理ではなく、むしろその内在性の原理であった。政治的宗教は、宇宙における絶対的秩序の代わりに、導いたりコントロールすることができる発達的秩序を考え出した。これによって、永遠の神の御心は排除され、人間の全体的計画がすべてを決定するようになるのである。人間の予定 (predestination)は、今や神の予定よりも優越してしまった。政治的道徳律は今まで常に政治的宗教を作り出してきたのである。

 社会秩序の第二の基礎は国家である。国家は、社会において支配的な倫理を、法の中にまとめ上げて出来上がった信条の土台の上に成り立つ社会機構である。国家は、道徳とまったく無関係になることはできない。なぜならば、そのすべての法はその国家の中において支配的な基本的道徳が受肉したものだからである。国家は宗教的に中立ではあり得ない。なぜならば、国家は法によって成り立つ宗教的社会組織だからである。国家が宗教的中立を宣言することは、自己を欺くことであり、また、人々を欺くことである。これは、新しい信仰を確立する道備えのために、古い信仰に対して中立でなければならないと言っていることなのである。国家は教会と同じくらい宗教的な組織なのである。ある社会においてその程度は非常に大きく、キリスト教的社会においては、教会と国家はどちらも宗教的組織である。教会は恵みの使命を持っており、国家は正義の使命を持っている。異教的社会においては、国家は宗教的秩序の中で優先的地位にあり、寺院や社は、国家の生命と機能に貢献するという重要な役割を担っているのである。

宗教を教会から取り去ることができないのと同様に、国家からも取り去ることはできない。教会と国家は宗教を見捨て、その信条を廃棄してしまうかもしれない。しかし、それは、ただ、新しい宗教や信条を採用するために古い宗教を廃棄することにすぎないのである。

 国家は、その根底に存在する宗教の種類に応じて、その目的も多様である。 基本的に、国家は救済的であるか、管理的であるかのどちらかである。救い主になるか、もしくは正義の使者になるか。聖書的キリスト教では、国家は義の僕であるが、非キリスト教的宗教や政治的宗教において、国家は人間の救済者である。この二つの概念は相互に排他的であり、そこにはいかなる妥協も存在しないのである。

 社会秩序の第三の基礎は、主権である。主権は、神に存するかもしくは人間や人間の秩序の特性であるかのどちらかであり、超越的であるかもしくは内在的である。基本的に、二つの相対する概念は神の主権と国家の主張する主権である。もし、神が主権者である場合、彼が万物の創造者であり支配者であり、神の法は万物を支配し、コントロールし、裁き、評価する。いかなるものも神を離れて存在せず、また所有することができない。もし、国家が主権者であるならば、国家は国民の上に完全な統制をしかなければならないし、あらゆる者を裁かなければならない。そうしなければ、その主権性は限定されるか、または、否定されるのである。

国家は、主権性を要求することによって、すべての領域の上に決定的で完全な権力になろうとしているのである。いかなる領域も国家の許可なしに機能することは許されないのである。大地、空気、水、空、すべては国家に属し、国家の法律と税金の下においてのみ使用することができ、それらは潜在的に、もしくは、事実上国家の所有物になってしまっているのである。国家は、実際は神にのみ属する人間の生命に対する絶対権を、横領したのである。

したがって、国家の信条はキリスト教的信条と信仰に対して聖戦を宣言したのである。二つの絶対至上権は同一の支配権を主張するので、時間と空間の世界において同じ位置を同時に占有することは不可能である。神の要求と、絶対権を主張する国家の要求はどちらも互いに排他的であり、二者の間において戦いは避けられない。キリストとカエサルの間の戦いは、不可避的戦いであり、死に至る戦いなのである。

 あらゆる主権的秩序にとって、罪と悪は重大な問題である。聖書的キリスト教は罪と悪を二通りの方法で扱う。

1.義の僕としての国家は、法の基本的原則として償いを実践する。神の義は常に維持されなければならない。このため、神の秩序がいかなる形であっても無効にされたり侵犯されたりした場合には、必ず秩序の回復のため償いがなされなければならないのである。それが、もし人間の手で実行されないのであれば、神はご自分の裁きを通して償いを成し遂げ、秩序を回復されるのである。

2.恵みの僕としての教会はイエス・キリストの救いの恵みを宣言しなければならない。イエス・キリストは神に対する人間の罪のための贖いを成し遂げ、人間と神との間の正しい秩序を回復したのである。この秩序とは神の下における交わりである。キリストの贖いの御業は、ちょうど神の御心に適った法律が神に対する責任として対人的な償いを実行しなければならないように、対神的な償いを完成したのである。この様に、少し高い視点から見ると、教会も国家も共に神の償いを実行するように召されていることが分かるのである。国家は義の僕として、教会は恵みの僕として。彼らの目的は、新しい創造における「万物の回復」(使徒3:21)である。償いは、この様に、キリスト教的社会秩序における基本的要素なのである。

 社会秩序の第四の基盤は恵みである。いかなる信条のもとにおいても人間の問題は、この世界における個人的・非個人的悪の存在にある。人間はその悪を評価する。そして彼の解答は彼の信条に基づいて決定されるのである。

 政治的宗教であるヒューマニズムにとって、悪は環境に存し、環境を変えるために行使される国家権力は救いの恵みなのである。国家は人間を変え、救うために、物質的・霊的な環境を作り変えなければならない。国家のプランに基づいた社会改革は、国家主義者の施す恵みなのである。悪い環境は人間を解放するために破壊されなければならない。この悪い環境とはある時は、人間や組織である。ある時はブルジョワであり、ある時は資本家、またある時は聖職者、クリスチャン、教会、個人組織、私企業、等々である。これらすべては、彼らの救済処置の過程において『粛正』され、破壊されなければならない。実際、この事は、歴史上数多く実行されてきた。この粛正から逃れ、生き残った人達は、キリスト教と異なる、新しい信条に基づいて『再教育』されねばならなかった。

 聖書的キリスト教にとって、悪の問題に対する回答は神の恵みである。イエス・キリストによる神の恵みと万物の回復こそ、この問題の解答なのである。人間の問題は彼の環境にあるのではなく、彼の罪にあるのである。その罪とは、人間が彼自身の神となり、自分自身が法であり、究極的存在になろうとする願望なのである。人間は自分自身を救うことはできない。政治によっても、法律や倫理の実践によっても、その他いかなる手段によっても人間は自分自身を救うことはできないのである。イエス・キリストだけが人間を救うことができるのである。

 人間は自由に、そして幸せに生きるために、神の法秩序の下に生活しなければならない。しかし、だからといって、法秩序が人を救うのではない。もし神の法を守ることのできる数多くのクリスチャンが存在しなければ、そのような法秩序は存続することはできないのである。したがって、信仰の秩序にとっての基本は恵みなのである。恵みなしでは、人間は、正しい性質を持たないために、自らの可能性を発展させ、活動を拡大し、生活を秩序づけることができないのである。 恵みの教理がどの程度社会全体に浸透しているかを知るには、我々は処刑制度を見なければならない。かつての合衆国において、役人は処刑前の囚人に対して神の救いの恵みを受け取ることを勧めた。これは珍しい事ではなく、当時一般に行われていた。多くの死刑囚が、自分がキリストの救いの恵みを必要とする罪人であることを認め、死んでいった。二十世紀半ばになると、状況はかなり変化した。キリスト教社会の痕跡を留めるものは、僅かに死刑囚付牧師制度だけとなった。一例をあげると、アーロン・チャールス・ミッチェルは、カリフォルニアにおいて、ある重罪のほかに、警官を殺害した理由で、死刑を宣告されていた。

 1967年5月、彼の弁護士は、裁判長エドムンド・G・ブラウンの前で、こう嘆願した。「もしこの被告が白い肌を持って生まれるという幸運に恵まれていたとしたならば、彼は今あなたがお座りになっている席に着いていたかもしれないのです。」37才のミッチェルは、17才の誕生日以来、約5年間の刑務所暮らしを経験していた。ミッチェルは報道陣に対し、こう言った。「私について調査し、知らなければならないことは、私をこのような悪へ導いたものは私の育った環境において一体何だったのかということです。」ミッチェルは続いて、自分がミシシッピーで生まれたこと、そして5才の時テネシーのメンフィスに移ったこと、 「14か15才の時両親が離婚した」ことなど、自分の生い立ちを話した。彼は、この後裁判で、彼の育った劣悪な環境を顧慮されて、無罪となったのであった!3  もう一つ、この新しい信条の性格を明らかにする効果的な例を挙げよう。それは国民住宅供給諮問委員会に関する話である。スラム街の住民の問題は劣悪な環境にあると判断した委員会は、ローレンス・ロックフェラー寄贈の25万ドルを使って、スラムにある、あるアパートを買い取り、それを改造し、そこで住民を更生させようとした。彼らは、世界に対し、スラム問題は、スラムの住民にきれいな住居を与えることによって解決することを示そうとしたのであった。

 アパートは非営利団体として、減税の対象となっていたので、委員会はスラムのアパートの家主に対して、有利な立場にあった。テナントの回転率は80パーセントであった。部屋の修理費は家賃を3倍に跳ね上げた。当初、8パーセントの利益を見込んでいたのだが、結果は3パーセントの赤字であった。この試みが失敗であると判明してから4年後に、彼らは整った住環境を維持することと、そこから利益を得ることが不可能であることを認めざるを得なくなった。スラムの住人の使い方がひどいので、アパートの損壊が激しく、維持費が非常に高くつくことが明らかになった。委員会の最終的な『解決』策は、彼らを大衆宿に収容することであった。4  結局、スラムに住む人々にとって、スラム街は彼らに相応しい場所なのである。そこが彼らの「居場所」なのである。彼らは新しいビルをスラムに変えてしまった。なぜならば、それが彼らの性にあっているからである。自由主義経済においては、スラムから自力で脱出することは可能なのであり、その様にしてそこから這い上がってきた立派な人達はたくさんいるのである。

 しかし、社会主義者と環境決定論者の解答は、今日非常に大きな影響力を持っているので、委員会の実験が失敗であったことが明らかになった後でもなお、自然とこの見解は力を盛り返すのである。これらの環境決定論者たちは、熱心に働く人々を累進課税によって罰し、スラムの住人に立派な住居を与えてこれを汚し、破壊する。

 こうすることによって、かえって彼らはすべての人の自由を破壊しているのである。すべてのものに課税し、その課税率を年々引き上げることによって、彼らは、社会全体のスラム化への道備えをし、富や財産を破壊し、人々のイニシアチブをあらゆる面で妨害しているのである。 委員会の活動の背景にある思想はヒューマニズムであり、国家ヒューマニズムである。結果として、この活動は彼らの信仰の論理的帰結だったのである。彼らの解答は、救済者的であった。救いは国家主義者の活動によってやって来る。そして、それは試練の時にはいつでも頼みの綱となるのである。 どの様な社会秩序にも思想があり、信条がある。そしてこの信条が秩序を決定し、その社会の特徴を形作るのである。ある社会秩序が崩壊し始めるとき、それはその根幹にある信仰、信条がすでに瓦解しているからに他ならない。しかし、通常、このような場合、秩序を防衛するために指導者が取る第一の対策は、政治的である。このやり方は、いまや伝統となっている。

 しかし、この防衛は、体制を守るだけであって信条に対しては何の手も打っていないために、それは表面的な防衛であり、地下深くにおいて進行している信条に対する攻撃に対してはまったく無力なのである。キケロがロ−マ共和制の防衛のために払った努力は勇ましく英雄的なものであったが、それは不能の典型でもあった。その時共和制はすでに死滅していたのである。キケロ自身が共和制が基盤としていた宗教を信じていなかったのである。キケロが貴族階級に主権を与える信条的基盤を受け入れることができないのに、どうして反抗的な民衆にそれを受け入れることを期待することができるのであろうか。

 キケロの立場は、本質的に個人的であった。そして共和制を擁護する様々な人達は信条によって団結していたのではなく、純粋に個人的な好みによって団結していたのであった。それに対して、ユリウス・カエサルは新しい信条主義の上に基盤を築き、自分自身を新しい体制の宗教的・政治的なリーダーとすることができたのであった。同様に、今日のヒューマニズムは様々な民主主義的・社会主義的体制の信条的基盤となっている。マルクス主義体制を見れば分かるように、ヒューマニズムの色彩が濃ければ濃いほど、権力の行使はより直接的になる。なぜならば、そこにおいてヒューマニズムの原理が首尾一貫して実行されているからである。今日保守主義者は、キリスト教的西洋社会の外面的政治体制を保持しようと試みている。

 彼らは、自由を漠然と肯定するだけで、思想的に自分達の立場を弁護することができない。このため今日の保守主義者は事実の暴露戦略をもって敵と戦おうとしている。彼らはヒューマニズムに反対するために、彼らの残虐さ、腐敗堕落、権力の乱用などを暴き立てるのである。もし事実を暴き立てることによって人々になにかしらの確信を与える事ができるとするならば、彼らは人々に、急進的ヒューマニズムを改革的急進的ヒューマニズムと交換するように勧めているにすぎないのである。彼らが揺さぶりをかけているのは、ヒューマニスト達の、体制を支えている信条的基盤に対する信仰なのではなく、その体制を形作っている外面的形態や代表者に対する信仰だけなのである。

 もし改革を成功させたいならば、その成功の鍵は体制を形作っている信条的基盤を攻撃し、そこに新しい信条を確立することにある。もし基礎が据えられるならば、建物の大体の形は決まってくる。信条が受け入れられるならば、社会秩序は決定される。これゆえに、西洋キリスト教文明の再建は、キリスト教的信条的基盤の確立を除いては有り得ないのである。























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