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律法強調に伴う危険



 律法を守る必要がないというのも誤りですが、律法を守ることが大切だ、と主張する集団も大きな危険に陥ることがあります。

 それは、聖書における聖霊の強調を忘れる場合です。

 聖書において、律法を守ることができるのは、聖霊による、と明記されています。



   律法の義が私たちの内に全うされるためなのです。私たちは、肉によらずに御霊にしたがって歩みます。(ローマ8・4)



 神の義が行われるためには、聖霊が絶対に必要だ、というのです。

 それは、なぜか、と言いますと、人間の傲慢がそこにあるからです。人間は、常に傲慢という罪と直面しています。正しいことを行うと、「自分はなんて素晴らしい人間なのだろう」と心の中で密かに思うのです。

 律法を守り行うことができるのは、ただひたすらに御霊の力によるのであって、自分の力によるのではありません。ですから、私たちは、自分のことを誇ることができないのです。何か素晴らしいことが行われたときに、例えば、事業において成功したとか、大学に合格したとか、慈善活動をしたとか、善を行ったときなど、「私ではなくて、御霊である。ハレルヤ!!」と叫ばなければならないのです。

 知らず知らずのうちに律法主義に陥っている集団において特徴的なのは、互いの間の比較と劣等感と、人間崇拝です。「○○さんは成長している」だの、「××牧師は行いが素晴らしい」だの、そういった人間に目を留めることがやたらと多くなる。パリサイ人の集団においても、このような傾向がありました。イエスは、彼らが「互いに栄誉をうけ合っている」と言いました。

 私たちは、神に目を留めるべきであって、人間に目を留めるべきではありません。人間など皆うじ虫のようなものです。だれかが素晴らしい人であっても、それは神様が素晴らしいことをその人にしてくださったからであって、その人が素晴らしいわけではありません。常に、栄光と義と名声は、神に捧げるべきです。ある人が素晴らしい学識があるならば、それは神がその人にそのような学識を与えてくださったからであり、学識を蓄える努力もその人に神が与えてくださったのです。

 科学の発展にしても、偶然によって発見されたことや、ある閃きをもとに考え出された理論が数多くあります。いや、すべてであると言ってよいかもしれません。すなわち、科学の発展は、神の国の発展の一部であり、それは、聖霊の働きによるのです。ノンクリスチャンにおいても、神の霊は働いています(これを聖霊の一般恩恵と言います)。人間の出会いや、インスピレーションや、成功や、大きな事業の完成など、すべてにおいて、神の導きがあるのです。人は、自分の人生が自分で切り開かれたものではないことを悟らなければなりません。結婚にしても、不思議な出会いがなければ結婚できません。

 カルヴァンは「パウロは人間の間では聖人かもしれないが、神の御前では一匹の獣に過ぎない。」と言いました。人間の集団は、いかに聖人のような人々の集まりであっても、所詮、獣の集団に過ぎないのです。

 聖霊を強調しない教会において起こる問題は、人間崇拝です。








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