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イエスは被造物だった?



(Q)神は常に上位の方であって、イエスは神によって創造された、より劣った方です。イエスはご自分が神とは別個の一被造物であること、またご自分より勝った神、ご自分の崇拝する神、ご自分が父と呼んだ神がおられることを何度も示されました。


(A)すでに掲示しましたように、イエスは、ご自分のことを「アルファであり、オメガである」(黙示録1・8)、「初めであり、終わりである」(黙示録1・17)と言われました。

これは、イザヤ44章6節「わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はない。」に対応しています。

つまり、自分は永遠の神であることを証言されたのです。ヨハネ1・1にある「ことば(λογοs)=キリスト」は、旧約聖書において繰り返し、「永遠の神」として登場します。

 主よ。あなたのことばは、とこしえから、天において定まっています。(詩篇119・89)
 私たちの神のことばは永遠に立つ。(イザヤ40・8)

 また、キリストが永遠の存在であることは、非常に多くの箇所において述べられています。

 主は、その働きを始める前から、そのみわざの初めから、わたしを得ておられた。大昔から、初めから、大地の始まりから、わたしは立てられた。・・・(箴言8・22−31など)

 キリストが、被造物ではないことは、ヨハネの1章3節において明確に示されています。

 すべてのものは、この方によって造られた。造られたすべてのものは、この方によった。

 ここで、「造られたすべてのもの」=παν ο γεγονενは、被造物全体を指しています。ということは、キリストがその被造物の内に含まれていないことは明らかです。

 また、キリストは、自存のお方です。つまり、派生者ではない、いのちの根源であると様々な箇所において述べられています。

 わたしこそ・・・いのちなのです。(ヨハネ14・6)
 わたしは、いのちのパンです。(6・48)
 わたしは、よみがえりであり、いのちです。(11・25)
 この方にいのちがあった。(1・4)

 そして、イエスには、「いのちの君」(使徒3・15)という称号が与えられています。この「君」と訳されている言葉αρχηγοsは、cause, author (原因、製作者)という意味です。ヘブル語の神の御名エホバ(iahveh)は「いのちの根源」という意味なので(F.Brown , S.R. Driver, C.A. Briggs, A Hebrew and English Lexicon of the Old Testament, Oxford)、「いのちの根源」という名称がイエスに与えられたということは、彼こそがエホバそのお方であるということを示しています。
 また、キリストは、黙示録3章14節において、「神に造られたものの根源者」と呼ばれています。

 キリストがいのちの根源、創造者であるならば、どうして創造された者となることができるのでしょうか。

 また、すでに掲示しましたように、イエスは、ご自分が「存在する者εγω ειμι」という神の御名そのものであることを示されました(マタイ14・27、マルコ6・50、13・6、14・62、ルカ21・8、22・70、ヨハネ4・26、8・58、13・19、18・5、6、8、参照:黙示1・4、8、4・8、8・24「わたしのこと=εγω ειμι」)。

 この「εγω ειμι」は、出エジプト記3章14節においてモーセに示された神の御名「わたしは存在する(ehye)」のギリシャ語の対応語です。

 ここからも、イエスが神であることが明らかなのです。



 それでは、どうして、イエスは父なる神に服従の姿勢を常に示しておられるのでしょうか。イエスが下位であったり、下僕の立場にあることが聖書において数多く見られますが、その理由は、次の箇所から明らかです。

 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは、人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。(ピリピ2・6−8)

 キリストが、下僕となり、人間と同じように服従の姿勢を取られたのは、ご自分から進んで身を低くされたからです。本来ならば、神として栄光の姿のままにとどまることができたのにもかかわらず、仕える下僕の姿を自ら進んで取られたのです。

 エホバの証人の方々が言われるように、本来被造物に過ぎない存在であれば、どうして、このように身を低くすることがあるでしょうか。もともと神ではない存在は、身を低くする必要などないのです。

 キリストが十字架上で、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と叫ばれたのも、人間の代わりに、神ののろいを受けたからです。本来ならば、私たちが十字架上で、神に対してこの言葉を叫ばなければならなかったはずなのです。ゲッセマネの園において、血のような汗を流されたのも、私たちの身代わりの苦しみだったのです。

 神は、義なるお方であり、義の基準が破られた場合は、その償いを要求されます。「まあ、いいよ。堅いこと言わないから。赦してやるよ。」と、根拠のない赦し方はできないのです。神は絶対であるがゆえに、ご自分の義の基準を無視し、代償を求めずに赦すことはできません。その場合、自分が絶対者でなくなります。

 ですから、「罪の報酬は死である。」(創世記2・17)とお定めになった、その定めに応じて、人間の罪の刑罰をだれかの上に下さなければならないのです。神は、キリストを人間の姿を取らせて地上に送り、人間の罪の刑罰を彼の上に下したのです。それによって、神は義の要求を満足されたのです。


 「神は愛である。」(第1ヨハネ4・8)とあるように、愛は神の属性の一つです。もし神が愛であるならば、一つの人格しかない場合、神は永遠の世界において、愛する対象がいないために、不完全な状態にあることになります。これは、神の自存の性質と反することになります。神は、被造物を必要としないお方であり、完全にご自分の存在の中で完結しておられるので、神は複数の人格を必要とするのです。


 キリストは、次のように言いました。



あなたはわたしを世の始まる前から愛しておられた(ヨハネ17・24)




   また、父なる神と子なる神(キリスト)に、上下関係が存在するのは、神が秩序と従順をその属性としてもっておられるからと言えましょう。神は絶対者であるがゆえに、三位の間に本質的な上下はありません。しかし、神の善なる属性のゆえに、永遠の世界において、秩序と社会が存在し、その秩序において、子は父に服従するという永遠の関係が存在するのです。






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