キリスト教再建主義の5特質(詳解)

富井 健

序論

1.御国の支配の方法

 万物は神の創造による。それゆえ、万物は神の御国、すなわち、神が支配される領域である。

 神の国の形態は、イスラエルの支配においてはっきりと示されている。神は、イスラエルに律法を与え、御心に従った統治の方法を啓示された。神の国とは、いったいどのようなシステムであるかということがイスラエルの支配のうちに示されているのである。

 イスラエルにおけるもっとも主要な職務は「王」「祭司」「預言者」であった。

 それゆえ、神の国として創造された世界全体の統治方法もこの3つの職務が中心となることは明かである。

2.人間の使命

 似姿として創造された人間は、神の御前にこの3つの使命「王」「祭司」「預言者」を与えられた。

 人間には、王として被造物を支配し、預言者として神の御心にしたがって世界を解釈し、祭司として世界を神に受け入れられる供え物として献上するという使命が与えられている。

 「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」(創世記1・26)

 神が世界を創造されたのは、創造の御業を人間に管理させ、そこに神の御心にかなった文明を築かせるためであり、さらに、完成された世界を神に献上させるためであった。

 しかし、人間は、堕落したために、この三つの使命を果たすことができなくなってしまった。

 人間は、神のために世界を支配するのではなく、自分の欲望により世界を横領するようになった。カインは弟アベルの生命を自分の所有とした。人々はバベルの塔を建てて、神に敵対する支配、王国を築こうとした(偽王)。偽の宗教を造り、真の神に受け入れられないような自分と文明を異なる神に献上するようになった(偽祭司)。人間は、神の教えを嫌い、自分勝手な教えを奉じて、それを宣言するようになった(偽預言者)。

3.真のアダム:キリスト

 それゆえ、神は、キリストを新しい人類(クリスチャン)の頭としてお立てになり、人間ができなくなったこれらの三重の使命を遂行させることをお定めになった。

 キリストは、復活して昇天され、現在彼には天地における一切の権威が与えられている(マタイ28・18)。彼は、現在世界の王であり、所有者である。また、彼は真の祭司として、御自身という供物を十字架において献上され、わたしたち及び世界を神と和解させ、たえずわたしたちと世界のためにとりなし(コロサイ1・20)、完成された世界を神に献上される(1コリント15・24)。彼は、聖書と御霊において神の御心を啓示され、世界についての真かつ唯一の正当な解釈者であられる(ヨハネ14・6)。

 このようにしてキリストは真のアダムとなられた(1コリント15・45−47)。「全世界を神の御意志に従って解釈し、支配し、とりなし、献上する」という人間創造の本来の目的を達成するためにキリストは復活し、昇天されたのである。復活は、刑罰の終了を表し、昇天は「王・祭司・預言者としての地位を獲得したこと」を象徴している。

4.キリストを頭とする新人類

 キリストを信じ、キリストにつながれた人間は、新たなる創造であり(2コリント5・17)、新人類である。アダムにつく旧人類は、エデンにおいて「王・祭司・預言者としての地位」を失ったが、新人類はキリストとともに罪を処罰され、復活、昇天し、「王・祭司・預言者としての地位」を獲得した。

 「罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、・・・キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、天の所にすわらせてくださいました。」(エペソ2・5−6)

 「そして、(あなたがたは)聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。」(1ペテロ2・5)

 「また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らに教えなさい。」(マタイ28・20)

 「全世界に出ていき、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16・15)

 キリストと教会(エクレシア=召し出された者の群(制度的地方教会だけではない))は、一体である。キリストは頭であり、教会は体である。教会は、キリストと同じ権威を与えられ、この地上において第二のアダムとしての任務を与えられているのである。

 キリストが昇天されて神の右の座に座られ、王となられたように、クリスチャンもこの世の王である。クリスチャンは、御心にしたがって世界を治めなければならない(黙示20・4、6)。

 キリストが祭司として世を聖め、完成された世界を神に献上するために働いておられるように、クリスチャンも祭司として御言葉による和解の務めを負い、世のためとりなし、漸進的に世界を聖める務めを委ねられている(マタイ5・13)。

 キリストが預言者として、神の御心を啓示されたように、クリスチャンも神の御心によって万物を解釈し、それを宣べ伝えなければならない(マタイ5・15−16)。

5.結論

 キリストの主要な使命と御業は、第二のアダム、真のアダムとして、第一のアダムが失敗した使命を回復することにあった。それは、単に人間を罪から救い、永遠の生命を与えるだけではなく、救われた人間が本来の創造の目的に適った生き方に立ち帰るためであった。

 「また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」(2コリント5・15)

 第一のアダムが神の創造の完成者としての役割を担わされていたように、クリスチャンも神の創造の完成に向けて働かねばならない。「地を従えよ。」との使命は、再度クリスチャンに与えられたのである。

本論

1.前提主義

(1)人間の意見は神の意見に依存する

 万物は神の創造によるものであり、それゆえ、神の所有である。万物の意味は、所有者である神によって決定される。例えば、目の前にある草花は神に創造されたものであり、その意味を決定できるのは、神以外にはいない。それだけがその草花の意味である。たとえ、権威ある学者が神の意見と矛盾することを述べたとしても、クリスチャンはひるんではならない。クリスチャンは、あくまでも神の預言者であり、聖書において啓示されている神のご意見以外のいかなるものも偽りとして断罪しなければならない。

 神の上に善悪の基準があるわけではない。神が善であると述べたことが善であり、神が悪であると述べたことが悪なのである。

 それは、神が宇宙の創造者であり、第一原因だからである。もし、何らかのものが神よりも前に存在するならば、神はその領域に関して権威ではなくなる。

 しかし、万物が神より出ているのであり、神より出ていないものが一つとして存在しないのであるから(黙示4・11)、万物はもっぱら神の意見によって解釈しなければならない。政治であれ、経済であれ、芸術であれ、あらゆる領域は神の意見に従わなければならない。

(2)神存在と聖書の無謬性は前提である

 神が存在するか、とか、聖書は正しいかという質問を投げかけてはならない。神の存在と聖書の無謬性はキリスト教の前提であって、論証の対象にはならない。

 聖書自体、神の存在と聖書の無謬性を前提としており、神を証明したり、聖書の正しさを証明していない。神が存在し、聖書が無謬であることは、聖書の前提である。そこには宣言しかない。

 「愚か者は心の中で、『神はいない。』と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい不正を行っている。」(詩53・1)

 「神のことばは、すべて純粋。神は依り頼む者の盾。神のことばに付け足しをしてはならない。神が、あなたを責めないように。あなたがまやかし者とされないように。」(箴言30・5−6)

 このように言うと、それは循環論ではないか、と言われるかもしれない。しかし、検証不可能なものについて、全知ではない人間は、結局循環論に陥らざるをえないのである。神がいないという無神論者も、神の不在を証明できないのであるから、当然それに基づいて築き上げられたあらゆる理論も循環論ということになる。「神は存在しない。それゆえ、キリストの十字架の贖罪のストーリーも虚構である」とする無神論者は、神の不在を証明していない以上、彼のキリスト贖罪否定論も信用が置けない。また、処女降誕の正しさを証明しないキリスト教には信用が置けないという人々も、処女降誕の不可能性を証明できないのであるから彼らの意見にも信用が置けない。「神がいるはずはない、だから、処女降誕もあるはずはない」とするのは循環論である。全知ではない人間は、神の不在を証明し、超自然的な力が一切世界に存在せず、それが歴史の中に介入することも絶対にないということを証明できない。

 つまり、有限な知しか持つことのできない人間は、神が不在であることも、処女降誕が歴史上一度も起きなかったということも証明することができないのであるから、こういった検証不可能な事柄について人間は主観や直感によって判断する以外にはないのである。クリスチャンも無神論者もあらゆる人間は、循環論者にならざるをえない。

(3)科学の位置

 科学万能主義は幻想である。科学が知ることができるのは、個物についてのごく限られた(条件付きの)真理でしかない。個物と個物を直感的に結びつけることが必要な世界観について科学は何も言うことができない。例えば、ある物理学者が、一つの物理法則を発見したとする。また、心理学者も、ある心理学の法則を発見したとする。それぞれは、実験によって再現可能な出来事であるから科学的真理であると言える。しかし、これらの二つの法則を結びつけて世界観を造ろうとすると、そこには科学的認識の方法(すなわち論証的discursive認識法)は通用しない。分野の違う二つの真理を結びつけるには、直感的intuitive認識法に頼らざるを得ない。その物理法則と心理法則はまったく異なる分野の法則であり、それらを結びつけて何事かを言うには、どうしても主観が介在してしまうのである。それゆえ、科学だけでは世界観を造ることはできない。

 キリスト教は世界観なので、科学だけでは世界観としてのキリスト教を批判することはできない。科学は世界観を造るための道具とは成り得ても、それだけで何かの世界観を築き上げることはできない。それゆえ、科学万能主義は幻想なのである。

 また、万物は神の創造によるので、「あたかも神が創造されなかったかのように」物事を見、それを定義づけることはできない。神の意見が究極であると考えなければ何事も正しく定義することはできない。

(4)近代の神学の逸脱と影響

 キリスト教を攻撃し、多くの人々を惑わし、神の御国の発展を妨害してきた自然主義神学や危機神学は、近代哲学が設定した認識論の土俵の上に立つ神学である。近代哲学は、認識の出発点を人間理性に置く。しかし、聖書は、人間理性は堕落し、また、そもそも有限者としての限界があるので、人間理性を確固とした基盤とし、そこから認識を展開することは間違いであると主張している。それゆえ、われわれ、聖書に立つキリスト教徒たちは、けっして自然主義神学や危機神学のように、近代哲学の認識論の土俵に入ることをしない。

 われわれは、「人間は万物の尺度である」という人々に対して、「聖書において啓示されている三位一体の神こそ万物の尺度である」と主張する。

 クリスチャンは、あらゆることについて、けっして認識の出発点を人間においてはならない。なぜならば、人間理性に置くときに、聖書によらずに、人間理性だけで築き上げられた様々なノンクリスチャンの情報を無批判に受け入れることになるからである。これは自殺行為である。クリスチャンは、預言者であり、神の言葉の管理者である。それゆえ、勝手に神の言葉を変えることはできないし、また、神の言葉と矛盾することを信じたり、それを教えることはできない。自分の目や耳に入ってくるあらゆる情報は、神の御言葉によってチェックしなければならない。

 「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(ローマ12・2)

 今日、多くのミッションスクールは、この点において妥協したために、進化論や世俗心理学などこの世の学問を無批判に受け入れ、福音の伝達と神の御国建設という使命を見失って、単なる人道主義の学校や受験校などになっている。歴史のある多くの大教会は、バルト神学(危機神学)の普遍救済主義(人間はみなすでに救われているとする説)によって骨抜きにされている。

(5)近代哲学の限界

 現代人の思考を支配している近代哲学は、イギリス経験論の理性批判によって壊滅的な打撃を受けており、そこからまだ回復できないでいる。「聖書とは別に、人間理性だけによって世界観を築き、人間だけで独自にあらゆることを解釈しよう」とする近代哲学の試みはここにおいて挫折しているのである。人々は有効な知の基盤を持つことが出来ないし、また、合理的な世界観を持つことができないでいる。それゆえ、上から下にいたるまで、だれも世界や人生の実存的な問題について確信を持つことが出来ないのである。聖書的キリスト教だけがその回答を持っている。人間は、三位一体の神を認識の基盤に置かないかぎり、不可知の絶望に陥るだけである。

 イギリス経験論は、人間の知はものごとの表象(印象)だけに留まり、その実体を知ることはできない、と述べた。これは、当然である。目の前の机を見て、人間が得られるのは、その表面から反射して人間の目に届く光が網膜に映って出来た像だけであり、人間が机について考えたとしても、それは机そのものではなく、網膜に結ばれた「机の像」について思考しているに過ぎない。それゆえ、その机の実体、意味について知るには主観に頼る以外にはない。

 ものごとの本質や意味について知ることができないのであれば、人間は世界観を持つことが出来ないということになる。世界観は「なぜものごとは存在するのか」という疑問に答えられなければならないからだ。

 事実、カントは、このような本質とか意味の世界(物自体の世界)を科学の扱う領域(現象の世界)と区別し、理性によっては不可知であると考えた。つまり、経験論の批判に答えて、人間理性だけで世界観を構築することの限界を認めたのである。

(6)近代人の世界観

 カント以降、近代哲学者は、聖書の神を認め、聖書に基づく世界観を受け入れることはしなかった。彼らはあくまでも「人間は万物の中心である」との立場を捨てなかったのである。彼らは人間中心の世界観を作ることを放棄はしなかった。

 クリスチャンならば、「人間にはこれらのことについて認識する能力が存在しないのであるから、これらの領域を創造し、これらの領域のことがらについて意味を与えた神を信じ、神の意見を聞こう」と言うことになるのであるが、神を憎み、神を亡き者としようとする者たちは、そのようには考えない。

 それでは彼らにとって、物自体の世界、すなわち、ものごとの実体、本質、意味、倫理、宗教の領域について、人間理性だけによって、どうやって意見を持つことが出来るのだろうか。それは、「非合理への飛躍」によってである。

 「正当に知る権利がないのであれば、勝手に作ればいいじゃないか、これがわれわれの自由だ」と叫ぶのである。

 「近代哲学(特にカント以降)は、大胆にも次のように宣言した。『人間が自分のために構築したものだけが人間にとって真なのである。』と。」(C.Van Til, The Defense of the Faith, P&R, NJ, p. 140)

 近代哲学の世界観はこのような「飛躍」から生まれている。人間にとって意味のある倫理、宗教、思想だけが「善」である。そこには根拠など不要である。

 近代人はこのような人間中心思想によって支配されており、彼らは、エデンの園におけるサタンの誘惑、すなわち、「自分こそが『善悪』の決定者である。」に陥っているのである。

 彼らがどんなにキリスト教を非論理、非科学と呼ぼうとも、彼らにはそれを証明する根拠がない。彼ら自身、キリスト教を扱う時に、非論理を採用しているからである。彼らには正当な世界観がない。

(7)結論

 「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。」(1コリント10・31)

 われわれを取り巻く世界を支配している主要な思想はヒューマニズムである。その主要な流れは、15世紀に発し、歴史を通じて徐々に発展し、キリスト教に対抗し、キリスト教を変質させながら近現代の世界を支配してきた。その中心的な前提は、「世界は人間のために存在し、世界を解釈できるのは人間以外にはない。」ということである。

 しかし、われわれクリスチャンは、神の預言者として、これを否定する。われわれは、神お一人が万物の存在目的であり、その唯一の解釈者であると信じる。 われわれは、神の御言葉によって、あらゆるものを評価しなければならない。どのような領域においても、人間は、神の僕であり、神の副官であり、独立して思考することを許されていない。独立して思考する領域を残しておくことは、その領域において人間が主権者であることを認めたことになる。それは、明かな偶像崇拝であり、この世界が多神教の世界であると信じていることになるのである。

 われわれの働きが益になるか無になるかはこの一点にかかっている。どんなに努力しても、もし、聖書に啓示された神の御心に反することをすれば、それは徒労に終わるのである。

 「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。」(詩127・1)

2.統治主義

(1)神の統治方法

 神が世界を統治される方法は、直接的ではなく、代理者を立てての間接統治である。神は世界を創造された時に、人間に被造物支配を委ねられた。もし、直接統治で済むならば、神は何から何まですべて完全な形の文明世界を創造されたであろう。

 都市を作り、機械を創造され、住む家、上下水道、銀行、デパート、あらゆるものを造られて、そこに人間を住まわせたであろう。しかし、そうではなかった。神は、自然を創造されたのであって、文明を作ることは人間に委ねられたのである。

 それは、神の霊的なお姿を人間を通じて表現させるためである。神がいかに素晴らしいお方であるかを人間を通じて、この物質世界において表現させるためなのである。

 人間が作り出すあらゆる知的な道具は、神の知性を表現する。テレビやコンピューターの仕組みを見るときに、人間に与えられた知性のすばらしさを感じる。

 人間が生み出す様々な芸術は、神の美しさを表現している。すばらしい音楽を作り出す人の遺伝子の内に、神は音楽の才能を組み込まれたのである。音楽をするために召された人々は、その人生を通じて神の美しさを証しするのである。

 スポーツをしている人間を見る時に、神が人間に与えられた運動能力に感嘆する。そして、組織的に行うスポーツにおいて、人間は、神の組織性、秩序、計画性を見る。

 人間が愛の業、福祉、犠牲、献身を行う時に、神が愛のお方であることが表現される。

 人間が単一者としてではなく、集団として創造されたのは、神御自身の内部における社会を表現されるためである。神は、アダムだけではなく、アダムから無数の人間を出すことを定められた。それは、神の内部における社会、すなわち、三位一体の各御人格の相互の愛と秩序と謙遜を表現させるためである。

 それゆえ、人間は、愛と秩序と平和と謙遜を現す社会を建設しなければならないのである。

(2)労働

 世界は、もともと人間が住むために創造された。進化の末に偶然に人間が登場したのではない。

 「天を創造した方、すなわち神、地を形作り、これを仕上げた方、・・・これを形のないものに創造せず、人の住みかに、これを形作られた方」(イザヤ45・18)

 しかも、それは、人間が労働するために創造された。

 瞬時にして創造できる全能の神が、わざわざ6日かけて万物を創造されたのは、人間に模範を示すためであった。

 「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし、七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。・・・それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。」(し出エジプト20・8−10)

 人間がなぜ6日働き、1日休まなければならないかは、この神の労働に根拠がある。

 それゆえ、人間による被造物統治は、この神の模範の枠に従ったものでなければならない。それ以外の方法は、人間及び被造物にとって、精神・肉体・生産性などあらゆる面においてふさわしくない。

 安息は、主の救いを象徴している。被造物統治に関して、「労働6」対「救い1」の原則は一貫して適用されている。人間は、労働だけによって何事かを成し遂げることはできない。必ず、主の救いが必要である。また、主の救いだけを待ち望んでも、労働がなければ計画は実現しない。病気は、医療だけで治ると考えることはできない。主の癒しが必要である。また、神癒だけに頼ることはできない。医療の発達は人間に与えられた使命である。

 また、このことは、歴史を通して実現される神の国についても言える。

 神の国がキリストの再臨によって一気に実現するというのは、労働を無視した教えである。人間は、王として地を治め、祭司として地を聖めて神に献上する使命を帯びている。その過程は、徐々である(マルコ4・26−29)。われわれは、労働と伝道とキリストの弟子づくりを通じて文明を徐々に神と和解させ、聖め、神に受け入れられる供え物として献上すべく努めるが、最後にキリスト御自身による直接介入と献上がある(1コリント15・24)。

 これは、個人の聖化と同様である。一生を通じて自らを聖化する働きがあるが、最終的には神による直接的栄化で終わる。

(3)家庭

 被造物支配の使命はアダムに与えられた。そして、エバはその助け手として、アダムの使命実行のために備えられた。それゆえ、結婚の主な目的は神の国建設にあることは明かである。妻は夫の仕事を助けるために神によって任命された働き人である。また、子どもは、次世代においてクリスチャンの影響が拡大するために整えられるべき神の予備軍である。それゆえ、聖書において相続は非常に大きなテーマとなっている。イサクの財産は、信仰的な子どもヤコブに相続され、霊的な事を理解できないエサウには渡らなかった。カレブは自分の子どもにではなく、婿オテニエルを後継者とした。イエスは、相続を受ける者は、主の御前にへりくだった従順な者であると述べておられる(マタイ5・3、5)。

 聖書において、血縁的相続よりも信仰的相続が重視されているのは、子どもが神の国の発展のために存在するからにほかならない。聖書において、信仰者の多産が勧められているのは、世代が経過するにつれて、神の民の数が増え、彼らを通じて神の御支配が進展するためである。もし、多産であり、しかも、信仰的にしっかりとした家庭を存続できれば、三世代でもその家族は社会において巨大な勢力になりうる。

 家庭が弱ければ、伝道の実は結びにくい。日本におけるキリスト教の発展の基礎は家庭の強化にある。

 聖書の主要な戒めの多くは、家庭に関するものである。家庭は神が定めた基本的な制度であり、それを基礎として神の国は進展するので、家庭を弱体化させる行為にはきわめて重い刑罰が課せられるのである。

 妻を中傷した夫にはきわめて多額の罰金が課せられた(申命記22・13−19)。姦淫の最高刑は死刑であった(レビ20・10など)。父母に暴力をふるったり、呪ったり、あくまでも反抗し続ける子どもは、死刑に処せられることがあった(出エジプト2・15、21・17、レビ20・9)。

 教育は家庭の基礎的な働きである。神は、イスラエルに対して、契約を維持し、神に祝福された民となり続けるためには、子どもに律法を教えなければならないとくり返し語っておられる(申命記4・9、10、11・19、31・19、32・46)

 それゆえ、イスラエルでは子どもの教育には格別の配慮がなされた。どこにおいてもユダヤ人は学校を作り、律法を教えた。

 子どもが異なる法を教えられるならば、彼らが神の戦士として失格者となる確率は格段に高くなる。サタンは子どもを欲しがる。子どもを奪えば、次の時代は自分のものになるからである。

 この意味で現在、サタンは、クリスチャンの両親に二重の攻撃を仕掛けている。

 一つは、異なる法を持つ者に教育を任せても安心だと信じ込ませていることである。

 しかし、神が教育を任せたのは両親である。両親が子どもに神の法を教えなければ、聖書の警告どおり、家庭は神の裁きを受ける。

 もう一つは、再臨が近いと危機感をあおり、次世代について無関心にさせることである。世界中のクリスチャンが「再臨が近い」と言って、浮き足立った生活をしている。まだ、全世界の民族の弟子化(マタイ28・20)も達成されていないのに、あすにでも再臨が来るかのように考えている。このようなメンタリティーでは、王、祭司、預言者としての、地上における自らの務めを果たすことは不可能である。

(4)再臨までの務め

 聖書は、再臨の前にクリスチャンが行わなければならない務めがあると述べている。

 それは、(a)「敵に対する勝利」と(b)「すべての事の回復」である。

(a)「敵に対する勝利」:

 聖書は、くり返し、「敵がキリストの足台になるまでは、キリストは天に留まっている。」と述べている。

 「しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、それからは、その敵が御自分の足台となるのを待っておられるのです。」(ヘブル10・12−13)

 「わたしがあなたの敵をあなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」(マタイ22・44;参照マルコ12・36、ルカ20・43、使徒2・35、ヘブル1・13)。

 クリスチャンは、敵(サタン)を打ち負かして足台としなければならない。それが完了するまではキリストは神の右の座に着いたままである。

 マタイ22・44では「わたし」とあるから、父なる神が敵を打ち負かすのであって、クリスチャンがそうするのではない、と言う人がいるかもしれない。

 しかし、神が事を行われる方法は、あくまでも人間を通じてである。それがそもそも人間が創造された目的だからである。神は人間を通じてサタンと戦われる。

 聖書は、一貫して戦うのはクリスチャンの使命であると教えている。

 「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身につけなさい。わたしたちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗闇の世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」(エペソ6・11−12)

 「悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」(ヤコブ4・7)

 「平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。」(ローマ16・20)

(b)「すべての事の回復」:

 使徒3・21には、「このイエスは、神が聖なる預言者の口を通してたびたび語られた、あの万物の改まる時まで天にとどまっていなければなりません。」(新改訳)とある。再臨の前に、まず「万物の改まること」がなければならない。

 この「万物の改まること」とは何を指しているのであろうか。

 「万物の改まる時」は、原語では次のようになる。

 χρονων 'αποκαταστασεωs παντων・・・(*)

  time of restoration of all things

 'αποκαταστασεωsの主格形'αποκαταστασιsは、「以前の状態への回復」という意味である(Theological Dictionary of the New Testament; 参照・Thayer's Greek-English Lexicon of the New Testament)。

 (*)を直訳すると、「すべての事が以前の状態へ回復する時」という意味になる。

 「すべての事が以前の状態へ回復すること」とは具体的に何を指しているのであろうか。

 預言者が旧約聖書において語った回復とは次のようなものであった。

 (I)堕落以前の状態への回復

  ・ 長寿と健康(イザヤ65・20−24;ここでの新天新地は、死ぬ者がいると言われているので永遠の御国のことを指しているのではない。)

  ・ 幸福(イザヤ65・18−19)

  ・ 平和(ミカ4・3−4)

  ・ 動物の性質の変化(イザヤ11・6−16、65・25)

  すでにキリストは十字架において、天にあるものも地にあるものも一切を「法的に」和解してくださっている(コロサイ1・20)。キリストの贖罪は、創造の全範囲に及んでいる。それゆえ、被造物の頭である人間が「実際に」神に立ち返る時に、地は呪いから徐々に解放されるのである。

 (II)異邦人の完成とイスラエルの回復

  ・ 異邦人たちが律法を慕い求めること(ミカ4・1−2)

  ・ イエス・キリストが世界の王として崇められること(イザヤ11・3−4、10)

  ・ 全世界に福音が海をおおう水のように満ちること(イザヤ11・9)

  ・ イスラエルが回復すること(イザヤ11・6−16)

  ギルは次のように述べている。「(使徒3・21の「回復」は)異邦人の完成・ユダヤ人の回心・すべての神の選民の集合・終わりの日におけるキリストの教会に臨むあらゆる栄光に関する約束や預言の成就を指している。」(Gill, Online Bible, v.2.5.2)

  パウロはローマ11・1、11−15、25−31において、再臨の前に異邦人の数が満ちること、イスラエルの回復(ユダヤ人の救い)、それに続く世界の未曾有の祝福があると述べている。

  現状を見て、回復の働きを評価してはならない。なぜならば、イスラエルの回復とともにやってくる祝福は想像を絶するものになるからである。

  「もし彼らの違反が世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らの完成は、それ以上の、どんなにかすばらしいものを、もたらすことでしょう。」(ローマ11・12)

  「もし彼らの捨てられることが世界の和解であるとしたら、彼らの受け入れられることは、死者の中から生き返ることでなくて何でしょう。」(同15)

  イスラエルの拒絶によって世界が得たものは「富」である。

  しかし、イスラエルが完成することによって得られるものは「復活」である。

  世界は、死からよみがえるのである。

(5)結論

 クリスチャンは、王として地を治め、祭司として地を聖別しなければならない。この統治は、労働と伝道により歴史を通じて拡大される。サタンの勢力は徐々に制圧され、ついに世界は堕落以前の状態にまで回復する。この使命を帯びている基本的な制度は家庭である。夫は、妻の助けを得て、仕事と伝道を通じて、世界を神と和解させ、子どもを次代の働き人として訓練する。次代においてクリスチャンの勢力が拡大し、多くの宣教師や牧師を支え、有用な土地を確保できるように財産を信仰的な子孫に残さなければならない。特に、イスラエルの回復のためには格別の力を注ぐ必要がある。イスラエルは、世界の回復の要だからである。

3.神法主義

(1) 主権者と非主権者の境界

  神と被造物との基本的な違いの一つは、法の上にいるか、それとも法の下にいるかという違いである。神がホレブの山においてイスラエルに法を与えたのは、御自身が神であり絶対的主権者であることの宣言のためであった。主権者であることの一番の特徴は法を授与できるということにある。法を与えることができない主権者は存在しない。主権者は、非主権者を支配する権限を持ち、その意志にしたがって非主権者を思いのままに動かすことができる。それゆえ、法の存在しないキリスト教、法を守らなくてもよいと主張するキリスト教、神が与えもしなかった、もしくは、神の意志と対立する法を守るように教えるキリスト教は、キリスト教ではないのである。聖書律法は、過去のイスラエルにのみ適用され、今日の教会や世俗世界では適用できないとする立場は、キリスト教ではない。このような立場は、聖書に啓示された法以外のものを主張するので、人間理性を聖書の上に置く自然宗教である。

 聖書は、「無からの創造」を教えている。無から創造したのであるから、この宇宙のあらゆる部分はすべて神の主権の下にあり、神以外の法を主張できない。それゆえ、神の法の埒外にあるものが世界に存在すると主張する立場は、「無からの創造」を否定する立場であり、神の絶対性、主権性を否定する立場なのである。ギリシャ思想を取り入れたローマ・カトリック教会は、神の創造の前にすでに自然秩序が存在したと主張する。それゆえ、ローマ・カトリックは、この世界には、神が権威ではなく、神が法授与者になれない領域が存在すると考えるのである。ギリシャ無神論に起原を持ち、ローマ・カトリックを経て近現代を支配してきた自然法思想は、神の「無からの創造」を否定し、自然秩序(natural order)の先在性を主張するため、神を相対者、非主権者に貶める立場である。それゆえ、クリスチャンは自然法思想を絶対に受け入れてはならない。近代の社会を基礎付けている自然権の概念をそのまま受け入れ、それに異議を唱えないクリスチャンは神の主権を認めていないので、クリスチャンと呼ぶことはできない。神の主権を認める本当のクリスチャンは、神の「無からの創造」を土台とする聖書律法だけが社会の真の土台となるべきであると考えるはずである。

(2)統治のための法

 神は、人間が地を従えるための方法として、法をお与えになった。アダムは、この法に従うことによって、地を支配し、神の創造を完成し、それを神に献上する使命を帯びていた。それに対する報いは、永遠の生命であり、それに逆らうことに対する刑罰は、永遠の呪いであった。しかし、アダムはサタンの誘惑によって、自分達の知恵によって善悪を決定できると考え、堕落し、その結果永遠の呪いを受けることになった。アダムと肉体を共有するアダムの子孫と土地は、彼と運命をともにしている。アダムから生まれるすべての人は、生まれながらにして「御怒りを受けるべき子ら」(エペソ2・3)であり、契約違反者である。彼らは神の敵として生まれ、神の法を守らず、神の御心について盲目である。万物は人間とともに虚無に服することになった。

 それゆえ、神は、信仰によってキリストに繋がる新しい人類を起こし、彼らに法を守らせ、再び地上を支配させ、神の国を作らせることをお定めになった。イスラエルは神の支配を拡大するために選ばれた民族であった。信仰はイスラエルよりはじまり、全人類はイスラエルを通じて恵みの福音を受け、守るべき法を与えられた。

つづく