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666について



(Q)たとえ、ネロを表す文字の合計が666になったと仮定しても、世の終わりにおける神の国の実現を預言する黙示録が、これが記された当時の状況を記しているだけだなどという解釈は、神の御心を損なうものでしかないのではないでしょうか。



(A)  (1)<合計が666になった>について:


 ヘブル語の文字をここに現すことは不可能なので、対応するアルファベットで示すと、第1世紀の文書に記されていたネロ・カエサルの綴りは、正確には、rsq nwrn (ヘブル語は右から左に書きます)となります(Marcus Jastrow, A Dictionary of the Targumim, the Talmud Babli and Yerushalmi, and the Midrashic Literature (London: Judaica Press, 1903))。当時はアラビア数字がなかったので、ヘブル文字には、数字が割り振られており、それによって数字が表現されていました。


 ヘブル語の数字の値は、


n =50 r=200 w=6 q=100 s=60 です。


  これらを、rsq nwrn に適用すると、200 + 60 + 100 + 50 + 6 + 200 + 50 = 666 となります。


 非常に多くの学者が、この名前が問題の解決としてふさわしいと述べています(Charles, Revelation 1:367, Farrar, Early Days, p. 471, n.4, K. Gentry, Beast of Revelation, p.34 等)。


 写本によって、666(χξs)ではなく、616(χιs)と記しているものがありますが、ξの文字とιの文字を書き間違えることは考えられないので、この違いは、意図的であると考えられます。


 新約聖書ギリシャ語の権威ブルース・M・メッツガーは、次のように述べています。「おそらくこのような書き換えは、意図的であろう。というのは、ギリシャ語のネロ・カエサルの綴り Neron Caesar をヘブル文字で記すと、666となるが、ラテン語の綴り Nero Caesar をヘブル文字で記すと、616になるからだ。」(Bruce M. Metzger, A Textual Commentary on the Greek New Testament (London: United Bible Societies, 1971), pp. 751-752)


 この違いについて、K・ジェントリー博士は、次のように述べています。「ユダヤ人であるヨハネは、666の数字になるようにネロの名前のヘブル語綴りを使用した。しかし、ヘブル語に通じていない人々に手紙が回覧されるようになって、666の意味を知っていた写本記者が、読者のために、それを意図的に616に変え、暗号解読をしやすいように便宜をはかったのだろう。」(Dr. Kenneth Gentry, The Beast of Revelation, ICE, Tyler TX, p.35)


 ここから、666は、初期の教会の時代から、文字解読すべきものと考えられていたことが推察されます。リュオンの監督イレナエウス(紀元180年頃)は、この文字を Euthanos, Lateinos, Teitan と解釈しています。


 ヘブル語で書かれていることについては、ヨハネ自身が、アラム語(ヘブル語と同族語)を話し、この黙示録の読者である7つの教会には、多くのユダヤ人が住んでいました(Sete, Revelation, p. lxvi; Williston Walker, A History of the Christian Church, 3rd ed. (New York: Scribnerユs, 1970), p. 16)、そして、初代教会を形成していたのが主にユダヤ人であったこと(ガラテヤ2・9、黙示2・9、14、3・9)を考え合わせると、ヘブル語を解する読者が、この数字を解読できなかったことはなかったであろうと推測できます。



 (2)<世の終わりにおける神の国の実現を預言する黙示録>について、:


 聖書解釈の基本原則は、「歴史的及び文学的文脈を離れて解釈してはならない」ということです。つまり、その手紙や文書がだれに宛てて書かれているのか、その文書はどのような事情の元に書かれたのか、について正しい知識がなければ、その著者の意図と離れたことを勝手に「読み込む」ことになります。


 例えば、テモテの手紙において、まず、パウロは、手紙の受取人(=テモテ)を特定しています。


「私たちの救い主なる神と私たちの望みなるキリスト・イエスとの命令による、キリスト・イエスの使徒パウロから、信仰による真実のわが子テモテへ。」(1テモテ1・1)


 そして、テモテの教会が直面していた問題を取り上げます。


「私がマケドニアに出発するとき、あなたにお願いしたように、あなたは、エペソにずっととどまっていて、ある人たちが違った教えを説いたり、果てしのない空想話と系図に心を奪われたりしないように命じてください。」(同1・3−4)


 ここで述べられている「ある人たち」とは、20世紀の日本の○○教会に異端を持ち込んでいる偽教師のことを指しているのではありません。パウロはここで、けっして、テモテが理解できない、2000年後の人物を想定しているわけではなく、テモテの教会に入り込んだ、パウロもテモテも共通して知っているある特定の偽教師を指しているのです。


 同じように、黙示録も、特定の読者(第1世紀の7つの教会[1・4、11、22・16])に向けて書かれていますので、黙示録の中に彼らが理解できないことは書かれていないと見なければなりません。これは、「聖書には、直接の読者に理解できないことは書かれていない。」(内田和彦)という聖書解釈の原則に則っています。


 ですから、666なる人物が、これらのクリスチャンに理解できない人物であると考えることはできません。


 また、「思慮のある者はその獣の数字を数えなさい。その数字は人間をさしているからである。」(13・18)とありますので、彼らが数えても無駄な、20世紀のヒトラーだとか、キッシンジャーだとか、ロスチャイルドである可能性はありません。


 このような解釈は、ペテロが厳に戒めている「預言の私的解釈」(2ペテロ1・20)です。


 さらに、「イエス・キリストの黙示。これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったものである。」(1・1)とあり、この手紙の目的は、「すぐに起こるはずの事を示す」ことにありました。


 「すぐに起こる」と述べている以上、2000年後に起こると考えることは不可能です。


 イエスが、湖の上を歩かれた時に、弟子たちは恐れました。そのときに、イエスは「すぐに」彼らに声をかけました。


 「というのは、みなイエスを見ておびえてしまったからである。しかし、イエスは『すぐに』彼らに話しかけ、『しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。』と言われた。」(マルコ6・50)


 聖書において、「すぐに」とは、文字どおり「時を置かずに」という意味として用いられています。


 第1世紀の教会のクリスチャンに対して、「すぐに起こる」と述べているのですから、遅くとも彼らの生存中に起こることは明らかです。もし、死後に起こることについて述べたとすれば、どうして、このような緊急の警告を繰り返し発しなければならないのでしょうか。


 「そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。」(1・3)


 「預言者たちのたましいの神である主は、その御使いを遣わし、すぐに起こるべき事を、そのしもべたちに示そうとされたのである。」(22・6)


 「見よ。わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを堅く守る者は、幸いである。」(22・8)


 「この書の預言のことばを封じてはいけない。時が近づいているからである。」(22・10)


 「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。」(22・12)


 「『しかり。わたしはすぐに来る。』アーメン。主イエスよ。来て下さい。」(22・20)


   もし私たちが手紙を受け取った時に、これだけ「すぐに来る」を連発されたら、本気で、すぐに来てくれることを期待します。なのに、それから2000年近くたった今日でも、まだ、来ていなければ、それこそ詐欺ではないでしょうか。


 この当時、イスラエル(*)及びローマに対する主の裁きは目前に迫っていました。ヨハネ黙示録を通じて、主は、7つの教会のクリスチャンを迫害するユダヤ人とローマに対する裁きの有り様を示し、御自身が彼らを救われることをお示しになりました。主は、彼らの信仰を励ますためにこの書を記されたのです。キリストは、地を裁くためにまさに来臨(**)されようとしておられました。ヨセフォスやスエトニウスなどの歴史家は、この黙示録の裁きが実際にローマとイスラエルに対して実現したことを詳細に記しています(参照:David Chilton, The Days of Vengence-An Exposition of the Book of Revelation, Dominion Press, Ft. Worth, Texas)。




(*)イスラエルは、神の警告を無視し、そして、しまいにはキリストを殺害します。この罪の報いとして、キリストは、イスラエルを裁きに来るのです。これは、紀元70年ユダヤ戦争において実現しました。実を結ばないいちぢくは、切り倒されて、神の国は実を結ぶ国民に与えられます。


 「だから、わたしはあなたがたに言います。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます。」(マタイ21・43)


 ユダヤ人は、しりぞけられて、神の国は、異邦人に渡りました。



(**)キリストの来臨は、必ずしも肉体的来臨であるとは限りません。もちろん、歴史の最後にキリストは肉体をもって来臨されます。しかし、歴史の過程において、キリストは、契約を破る者に裁きを下すために来臨されるのです。


 例えば、キリストの来臨は、キリストの世代内において実現すると語られています。


 マタイ24・30には、「地上のあらゆる種族(***)は、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。」とありますが、この来臨が、キリストの世代内に起こると、預言されています。


 「これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代(γενεα)は過ぎ去りません。」(24・34)


 ここで、γενεαとは、「同時代に生存する人々の全集団、もしくは、通常、1世代が占める期間、ほぼ30年から33年の間」であると辞書に記されています(Greek-English Lexicon of the New Test. Baker, Grand Rapids, Michigan)。


 つまり、キリストと同時代人が生存している期間にマタイ24章の前兆が起こり、人の子の来臨も起こると言われているのです。


 したがって、これを再臨=肉体的来臨ととることは不可能なのです。




  (***)「種族」に当たる言葉は原語ではφυλαιですが、これは、辞書によりますと、「族長ヤコブの12人の息子たちから出たすべての人々all the persons descended from the twelve sons of the patriarch Jacob (Greek-English Lexicon of the New Test. Baker, Grand Rapids, Michigan)」を指します。つまり、ユダヤ人の諸氏族が人の子の来臨を見ると言っているのです。けっして、全世界の人々が見るわけではないのです。




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