《シリーズ・わが専攻語科ストーリー》その5

(Mujhe Urdu se ishq hai) ウルドゥー語大好き

生まれは「高貴なる陣営の言葉」

はじめに
第二次大戦終了まで約200年間英国の支配下にあったインド亜大陸、つまり現在のインド・パキスタン・バングラデシュにおいて、もっとも普遍的であった言語を学んできた通称「インド語科」は、明治42年(1908)当時の東京外国語学校東洋語速成科でヒンドスタニー語が取り上げられて以来、さまざまな変遷を経ました。今日ウルドゥー語(Urdu)とヒンディー語(Hindi)と2つの言葉が外語で教えられていますが、いずれを語るにしても、その源流であるヒンドスタニー語とそれを学んだ人々を描くことから始めなければなりません。
インド語科=印パの卒業生 大事にされた「先駆け」の女子学生
最初のインド語科卒業生は、大正3年(1914)3月卒の4名でした。以降、平成13年(2001)3月卒業生まで、ウルドゥー・ヒンディーあわせて男性973人、女性455人、合計中途退学者含め1,428人を数えます。このうち物故者および消息不明の方々をのぞくと、約1,000人近くが現存する印パの卒業生ということになります。
ここに示すグラフは、旧制専門学校卒業生の数(大正3年から昭和26年まで)を示す一番左の柱をのぞき、新制大学第一回卒業生である昭和28年(1953)以降の人々の数を5年ごとに区切って(一部例外あり)男女別に集計したものです。ここで見られる顕著な徴候は、女性の社会的進出とその地位の向上ではないかと思います。昭和の末ごろから女性の数が徐々に増えてきており、平成に入ると男子卒業生の数は全体の30-40%、年度によっては四分の一にまで落ち込んだ時もあるほどでした。この傾向は何も印パに限ったことではないでしょうが、このようにたくましくなった女性達の源流をたどることからこの稿を始めようとおもいます。
“外語のキャンパスが、現在のように女性の姿で埋め尽されるとは夢にも思っていなかった”と語るのが、昭和30年(1955)印パ最初の女性卒業生となった田子 (小池) 道子。“私は昭和26年4月に外語に入学しました。まだ都立の高校が男子と女子と別々であった時代で、私は女子だけの高校から圧倒的男性上位の外語に入ったのです。インド語を志望したのは、高校に外語出身の先生がおられて「インド語科は英語も勉強できるよ」とすすめてくださったからです。入学して女性だから困ったということはありませんでした。ただ教室で「紳士諸君!」と呼びかける先生もおられて、まさか小さな教室の中で“女性もいますよ”と声をあげるわけにもいかず、ただただおかしさをかみ殺すのに苦労しました。男子学生の中の女一人だったので、かなり大事にさたと思います。よき時代であったことを感謝しています。”
ヒンドスタニー語、そしてUrdu語とHindi語
女性の話で始まりましたが、ここで印パの学生が学んだ言葉とその背景をお話しましょう。私たち印パの卒業生は、三大文明発祥の地の一つであるインダス河流域やインドを横切って流れるガンジス河流域、つまり現在のインドとパキスタンに住む沢山の人が話す言語を学んだことになります。もともと国境もなかったこの両国は、英国から独立を勝ち取ったその直後から険悪な関係となってしまいました。3回の印パ戦争をへて半世紀を過ぎた今、共に核兵器を持つようになり、カシミールの国境をめぐってかつてないほどの緊張が高まっています。しかし、こと言葉についていえば、両者は文化的にも歴史的にも極めて密接な関係を持っています。「ヒンドスタニー」とよばれるその言葉は、現在の外語大におけるウルドゥー語・ヒンディー語、さらにはペルシア語の教育体系の源であり、外語大の発展と拡充にもっとも貢献したものの一つとされています。
20世紀初頭に日本の文部省が外語に導入した「ヒンドスタニー語」とは、その時代でいう“インドの地”のペルシア語風表現である“ヒンドスターン”の言葉といった意味です。インド・アーリア語族のひとつで、ガンジス河中流地域で話される方言を軸とした市井の話し言葉であり、インド亜大陸北部一帯の共通語となっていました。ムガル王朝とともにインドに定着したイスラム教徒は、アラビア語やペルシア語の語彙を自分の話し言葉の中にとりいれ、ペルシア文字を改良した字体を使って、右から左に向かって書く「ウルドゥー語」をつくっていきました。その名前が元来意味するところは、「高貴なる陣営の言葉」です。第二次大戦が終結し、イスラム教徒の国としてパキスタンがインドから分かれて独立するに当たり、ウルドゥー語を国語に制定した背後には彼等の誇り高い気概のあることをうかがい知ることが出来ます。
因みに、おなじヒンドスタニー語が、左から右方向に書くデーヴァナーガリー文字で記され、サンスクリットの語彙を多く含むようになってヒンドゥー教徒の書き言葉「ヒンディー語」が成立しました。
日英同盟;列強帝国主義の消長と「インド語科」の呼称の変遷
1858年ムガル王朝を滅亡に追い込んでインド亜大陸を「英領インド」としてしまった英国は、多種・多言語の現地民族を支配し、英国に忠誠を尽くすインド人傭兵を訓練し、彼等を戦場で指揮をするには、出来るだけ広範囲に通用する言葉を採用する必要があり、そこで取り上げたのがヒンドスタニー語であったわけです。「東亜及び印度地域での日英両国の領土と利益を守ること」が明言されている第二次日英同盟(1905年)の影響下、インド亜大陸の言語の教育が日本でも英国にならって同じヒンドスタニー語からスタートしたことは意味深いものと言えるでしょう。しかし、この為に、日本政府の招聘をうけて来日し外語で教鞭をとったインド人の先生方に、いくつかの悲劇をもたらしたことも忘れるわけにはいきません。明治末期から大正初めにかけてヒンドスタニー語の教師であったムハマッド・バラカットウッラーは、反英独立運動の闘士であったことから在日英国大使館ににらまれ免職となってしまいました。また、大正5年(1916)着任したハリハルナート・トウラル・アタルは、在日中急速に反英運動に傾斜したため、英国大使館の厳しい追及を受け服毒自殺に追い込まれています。(表向きは精神異常のためとされたそうですが)
外語におけるいわゆる「インド語科」の呼び名は、英国のアジア植民地支配と、日露戦争を契機に日本も巻き込まれていった20世紀の列強パワーゲームとに密接に関連しながら変わっていきました。「ヒンドスタニー語科」(明治42年、1908)から始まり、「インド科」(昭和19年、1944)、「第七部第一類」(昭和26年、1951)、「インド・パーキスターン語科」(昭和36年、1961)、そして平成7年(1995)から現在の「南・西アジア課程」の中のウルドゥー語専攻とヒンディー語専攻とになったのです。
卒業後の活動分野
これまで「インド語科」の呼び名の変遷について述べてきましたが、外部からみればこのような内部的な区分けなどはさほどの問題にならず、特に実業界においては、多くの場合インドもパキスタンも共に南・西アジアの一部として認識されていたのが実情でした。
印パの卒業生が実社会に出てからどのような分野で活動しているかについては、3年程前に東京外語会の要請に応じて作業したときのデータをもとにしてグラフをつくってみました。これは、調査した2つの期間での印パ卒業生の就職先分野を%(夫々の5年間の卒業生総数に対する比率)で表示したものです。これとて調査対象がすべての年次をカバーするものではないので完全とはいえませんが、少なくとも傾向ははっきりわかると考えます。 

日本経済が戦後の回復期から成長期に移りかけた昭和30年代前半の5年間(昭31〜35)を対象とした調査では、「生産(メーカー)」と「商業(商社)」への就職が圧倒的多数でした。日本経済の発展成長の時期でもあり、そこそこ英語ができて度胸があり、生活環境の悪い外地に出されてもへこたれない、したたかさを持つ印パの卒業生の特徴が、海外市場の開拓に着手しはじめたこの時代のニーズに合ったのではないかと思います。また、この時期の卒業生の中からは、組織に縛られるサラリーマン生活からぬけだし、時代を先取りして独自の分野で存在感を示すようになった企業家も何人か出ています。「枠にとらわれず、権威に媚びない自由な発想」の持ち主が多い印パ卒業生の一面を物語っているといえるでしょう。

それからおよそ40年後の卒業生(平成6〜10年の5年間)につき同じ基準で行った調査では、就職先の上位3分野は、「官公庁・団体(外務省ほか中央省庁、地方自治体、各種団体など)」、「金融(銀行、保険、証券、クレジットなど)」および「マスコミ(新聞、放送、出版など)」でした。その要因としては、日本経済の拡大と多様化・細分化がすすんだ結果、外語大の卒業生に対する期待も幅広いものとなったことが考えられます。他方、最初に述べたように、この頃になると供給側である大学でも女性の数が増大し、女性の社会的進出が加速されたという社会構造の変化も理由のひとつとしてあげられます。
蒲生禮一先生:
1901-1977 南・西アジア −言語教育の基礎づくりとその横顔−
昭和13年(1938)蒲生禮一先生(大12)がヒンドスタニー語(ウルドゥー語)文法書を著されたことで、日本においてようやくインド亜大陸の言語教育の基礎がかたまったと考えられています。先生は同時にペルシア語への展開のタネもまかれており、これが昭和55年(1980)の「ペルシア語科」正式発足につながったのでした。この時、ウルドゥー語の黒柳恒男先生(昭22)がペルシア語の主任教授となられました。
一方、蒲生先生のもとでヒンドスタニー語の研鑚を重ねてこられた土井久弥先生(昭13)は、インドのヒンディー・ベルトの中心地アラハバード大学に2年間留学され昭和30年(1955)帰国されました。それ以降、蒲生先生の形成した太い幹から枝分かれする形でヒンディー語を本格的に教え始められ、昭和36年(1961)はじめてのヒンディー語専攻の卒業生が送り出されることになったのです。
(写真は昭和22年頃の蒲生先生)

このように蒲生先生はウルドゥー語のみならず、広く南・西アジア地域の言語教育の基礎を築かれた存在でしたが、それだけに学問に対する厳しさも人一倍でした。明治34年(1901)島根県松江市に生まれた蒲生先生は、郷里のもつ文化の香りを身につけられた学究として偉大な功績(勲三等受勲)をのこされましたが、日ごろ、“私の持つ学問の真髄を力ずくででも盗みとって自分の物とするのが本当の弟子だ”と云われており、学問におけるご自分に対する厳しさを、学生に対しても同じように求められていました。その授業の峻厳さは多くの卒業生、特にシニアの方々の記憶には深く刻まれています。

昭和62年(1987)に刊行された370ページほどの「蒲生禮一先生記念論集」の中で何人かの卒業生が語る先生の横顔は、戦時色を濃く反映した「若さと厳しさ」に溢れるものでしたし、後半の円熟期には「オヤジ」としての暖かいまなざしを感じさせます。「2年の終わりになり、蒲生先生がインドに留学のため出発されたときは、思わずクラス全員がほっとして歓声をあげたほど先生の授業は厳しかった」と大島誠(昭13)は述べています。入学時に先輩から先生のシゴキの凄さについて聞かされていた田中良平(昭21)さえも、「実際はそれ以上でヘドの出るほど厳しいスパルタ教育の洗礼をうけた」そうです。「入学最初の授業で、見たこともない文字が右から左に並んでいるガリ版刷りの手書き文法書を示され、“これを見てやる気を失った人はもう学校に来なくてもいい”」といわれたことをほとんどの卒業生はよく覚えています。

しかし、「厳しさのなかに温情あふれる先生から、人生を歩む上において数々の教訓をいただいた」と宮本和夫(昭23)が語るように、先生にシゴかれたシニアの卒業生も、「オヤジ」を感じた少しあとの卒業生も、共に「恩師」という感情を今も先生に抱き続けています。学生運動にのめり込んで何年も学内で留年し、ぎりぎりのところで米国留学の機会をつかんだ荒柴雅美(U昭36)は、このまま米国に居残って勉強を続けるかどうか迷っている時、先生から長文の心のこもった手紙をいただき、「今後の人生のため、せめて日本の大学だけは卒業しておくように」と諭されたそうです。その手紙の中で蒲生先生は、彼のやった学生運動を「本人としては本気で日本のためを思ってやった筈」と理解を示され、「あくまでも自分の良心に従って進みなさい」と言って下さったその言葉が、その後の自分の人生を決めたのだと彼は信じています。(写真右は昭和36年の蒲生先生)
わりに
今年は早々にもアフガニスタンでの戦後処理をめぐって議論が始まるでしょう。また、この原稿を書いている時期、印パ国境をめぐり核使用の危機をはらんだ対立が緊張の度合いを高めつつあります。多くの日本人にとりこれまで「辺境」に過ぎなかった南・西アジアが、ここにきて注目されるようになってきました。今回の東京外語会の企画は、印パの卒業生に対しては自分が学んだ言葉の原点を気づかせる機会を与えてくれました。また他の言語を学んだ同窓の方々には、印パ卒業生のバックグラウンドを通して、日本にとっての「辺境地域」と思われていたところが、“そうでないこと”を知っていただく機会となれば幸いです。

なお、本稿の表題のなかにあるウルドゥー語表記のところは「ウルドゥー語大好き」という 意味で  Mujhe Urdu se ishq hai  (ムジェー ウルドゥー セ イシュク ハイ)と右から読みます。
*執筆者:インド・パーキスターン語学科卒業生の会世話人会  文責:大沢章伸


 
田子の入学の翌年から続けて女子学生が1名、2名、2名と入学してきました。そのお陰で、昭和30年、戸田橋で行われた語部対抗ボートレースにようやくインド語科の女子チームの出場が実現しました。チーム名は「ハーレム・ダンサーズ」。クルーは竹本(市岡)康子(昭31)、宇田(滝浪)房子(昭32)、Cartwright(染谷)千鶴子(昭32)、帯屋(大久保)きよ子(昭33)、淺川(西村)エリ子(昭33)。ここに掲げる写真は、この年の6月19日戸田橋の荒川土手で「ハーレム・ダンサーズ」 5人の美女が写っている浅川秘蔵の一枚です。この時代にしては思い切った挑発的な名前をつけて出場した彼女たちの勇気と闊達さが、外語キャンパスの今日ある姿を予言していたと思えてなりません。