ヨーロッパ演奏旅行の新聞批評

1997年4月のN響ヨーロッパ旅行の現地新聞の批評です。


第1回目は4月27日のチューリッヒの演奏会の批評です。(新聞名は不明です)

「力応変に
  デュトワ指揮 東京オーケストラ

ワーカホリックな指揮者というのは珍しくないが、シャルル・デュトワ(61歳)ほど仕事好きな指揮者はいないだろう。かつてチューリッヒのカンペのもとで指揮者としての研鑽を積み、後にベルリンで指揮活動を行っていた彼は、今超一流のオーケストラを3つも指揮している。それも3大陸にまたがってモントリオール(1977年から)、パリ(1990年から)、そして今シーズンから日本が加わった。今回彼は常任指揮者を務める3番目のオーケストラ、NHK交響楽団を率いて、日曜日にチューリッヒのトーンハレで演奏会を開いた。

デュトワは常々「個々のオーケストラのスタイルをはっきり確立していくことが大事」と語っているが、日本のこのオーケストラとの仕事では、目的はすでに達成されている。NHK交響楽団の特徴は、モントリオールの透明感あふれるエレガントな響きでも、パリの官能的な透明感でもなく、エネルギッシュでリズム感あふれる演奏だと言える。また、プロコフィエフの交響曲第6番で聴かせたような、力強い響きが持ち味のようだ。数年前のインタビューで極端なフォルティッシモは嫌いだ、と語っていたデュトワがあのような音を求めるようになったのは、正直言って驚いた。−−−非常に野心的な日本のラジオ放送交響楽団は、完璧なテクニックとさまざまな音楽スタイルへの力応変な適応ぶりを示していた。71年のその歴史の中で、何人もの日本の指揮者、そして何人ものヨーロッパの指揮者(スイス人指揮者では、ニコラウス・エシュバッハーが以前このオーケストラを指揮している)のもとで演奏し続けてきたオーケストラである。日本の車もヨーロッパの車を完璧に模倣できたのだから、彼らの見事な演奏も不思議なことではない。演奏会のメイン・プロは(めったに演奏されない)40年代半ばに書かれたプロコフィエフの交響曲。奇妙なオーケストレーション、エピソード的な構造のこの作品は、がむしゃらに突き進んでいくような音楽で、完璧なテクニックだけでは飽き足らない何かがある。むなしく空転するエネルギッシュな運動、すぐに力が抜けていくアグレッシブな動き、どこか滑稽な物悲しい響き。デトレフ・ゴヨヴィはこうした音楽を「ソヴィエト的シュールレアリズム」を呼んでいる。デュトワはカリカチュア化された当時のソヴィエトの情勢を、スコアの中から読み取り、浮き彫りにしていく。まるで映画音楽のような音楽だが、プロコフィエフは実際に第6交響曲と平行して、同じ時期に映画「イワン大帝」の音楽を書いている。

NHK交響楽団の挨拶代わりのサウンド.デモンストレーションとなったのが、冒頭(ワーグナーの「さまよえるオランダ人」序曲)とフィナーレ(ブラームスの「ハンガリー舞曲第1番」)の作品。しかしワーグナーよりブラームスの方が若干良かった。また、ソリストとして共演した日本の若手ヴァイオリニスト キョウコ・タケザワは素晴らしく、日本の優秀な若手演奏家の層の厚さが感じられた。豊かな表現力で、作品の多面的な性格を一つ一つ楽しむかのように、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲ホ短調を完璧に弾きこなしていた。だが、なぜかそこに今一つ個性のようなものが感じられなかったのが残念。

4月29日評 マリオ・ゲルトアイス」


最初の演奏地であるデュイスブルグの批評です。

遥かなるアジアから響く奇跡
交響楽団トウキョウがマイスター・コンサート・シリーズで名演を聴かせる

NHK交響楽団はベルリン・フィルハーモニー交響楽団と比較されることが多いが、それは単なるマスコミ向けの宣伝工作ではない。日本を代表する同オーケストラはマイスター・コンサート・シリーズ第8公演に出演し、西欧の一流オーケストラと較べてなんのひけも取らない名演を聴かせてくれた。また、新しい常任指揮者に選ばれたシャルル・デュトワは、このオーケストラが潜在的に持つはかり知れない力を、最大限に引き出すすべを明らかに心得ている。
マイスター・コンサート・シリーズの頂点を極めたこのオーケストラの響きは、絹のように美しく、柔軟性と幅がありブリリアントで、技術的な面でも完璧。全く弱点のないオーケストラである。
モントリオールで世界的にデビューしたスイス出身の指揮者シャルル・デュトワは、このエリート・オーケストラから柔らかく透明感あふれるフランス的な音色を引き出していた。ワグナー、シベリウス、プロコフィエフといったプロは決してフランス的とは言えないが、どの作曲家も、フランス文化の影響を少なからず受けている。ワーグナー作曲「さまよえるオランダ人」の序曲も、奥深い表現力を失うことのない、柔らかなエレガントな演奏だった。デュトワのノーブルな指揮が、このオーケストラ特有の崇高なサウンドと見事な調和を見せていた。
ヤン・シベリウスのヴァイオリン協奏曲でも、指揮者とオーケストラの相性の良さが発揮され、非常に遅いテンポながら緊張感が途切れることなく、ソリストに対するサポートぶりも素晴らしかった。キョウコ・タケザワのヴァイオリンもオーケストラ同様のスケールの大きさを見せ、豊かで明るく温かい音で、フィンランドの天才作曲家の世界を表現し、世界一流の演奏を聴かせてくれた。
注目すべき今回の演奏会の目玉は、極めて珍しい作品だった。セルゲイ・プロコフィエフの交響曲第6番は、余り演奏されない作品だが、その理由は謎。NHK交響楽団のようなエリート演奏家集団による名演奏を聴くと、そうした疑問が更に深くなる。

NRZ新聞 4月25日評


最後の演奏地ウィーンの新聞評です。

郷愁、明朗さ。絶望感

ウィーンの日本:サイトウ記念オーケストラに続き、NHK交響楽団がコンツェルトハウスにてシャルル・デュトワの指揮で公演を行った。

「日本的な演奏スタイル」を期待していた聴衆がいればがっかりしたであろうほどにサイトウ記念オーケストラとNHK交響楽団の2公演の間にははっきりした対照性が表された。
その原因はまず指揮者にある。小沢征爾の指揮の持つ柔軟で流れるようなしなやかさに比較して、デュトワの指揮ははりつめてエネルギッシュで時折力強く掴まれるかのようで対極的である。これにはもちろん両オーケストラの演奏が影響している。NHK交響楽団の響きは、比較するなら「たくましさ」を特徴づけている。サイトウ記念オーケストラに多い女性団員がNHK交響楽団には少ないことも原因だろう。
プロコフィエフの交響曲第6番はサイトウ記念オーケストラとNHK交響楽団の両プログラムの中でも興味をひいた作品であった。1945/47年に書かれたこの作品は、「戦争の恐怖の記憶が色濃く現れた」作品である。極端な音調の選択の中にショスタコーヴィッチと同じような反体制的思想を読み取ることができる。第1楽章は切れ目の多い脅迫的な音の流れが幾度も中断されることで恐怖の克服が表現され、第2楽章の郷愁に満ちた歌で目覚めの動きが次第になじんでいき、フィナーレでは「ピーターと狼」と同様の柔らかな明朗さで始まるが、突然絶望感に満ちて終わる。
完成度の高い力強い表現の演奏が、簡単には近寄りがたい作品に値する成功に導いた。シベリウスのヴァイオリン協奏曲については、若いヴァイオリニスト竹澤恭子の完璧な解釈を特筆すべきである。彼女の音楽性、音の豊かさとまとまり、欠点のない演奏技術は、それ以上の希望を述べる必要がない。
わずかに重く響いたのは最初のワーグナーの「さまよえるオランダ人序曲」であった。
アンコールのブラームスのハンガリー舞踊曲ほどマジャール人の躍動感に満ちた演奏は他にない。万歳日本!

5月3日付ブレッセ紙、ゲルハルト・クラマー記者


今回の演奏旅行のもう一つの主要演奏地のパリの批評は現在のところN響にはまだ来ていないそうです。辛口で有名なパリの批評はどんなものか興味があります。(多分酷評だと思います)

と思っていたら今日(97.5.31)パリの批評が練習所に出ていました。

日本競演

日本の管弦楽団二団体がパリで競演した。うち一つ、NHK交響楽団はこの国で最も古い団体で(創立1926年)、現在フランス国立管弦楽団の音楽監督を務めるシャルル・デュトワが首席指揮者の任にある。他方1984年に発足したサイトウ・キネン管弦楽団は例によって創立者小澤征爾の指揮。この団体は1974年に亡くなった彼の地の大教育者、斉藤秀雄の門下生達により構成され、師匠の業績を記念するために毎年各々二週間づつ二度にわたるシーズンを組み、九月の松本音楽祭と、春の定期ツアー(よくヨーロッパへ来る)からなる演奏活動を行っている。小澤征爾自身の選んだこれらの素晴らしい楽員達は世界各地の著名管弦楽団に所属する日本人奏者たちであり、特に弦のセクションの見事さはシェーンベルクの「浄夜」にぴったりのアンサンブルを構成している。
冒頭の二小節で低弦に静かな躍動が刻まれ、ヴァイオリン独奏がそこに動きと光を与える。徐々に厚みを増す弦が音楽の動きに新たな刺激を与えつつ、彼らはカリスマ的シェフの指示に極めて忠実に反応していく。驚くべき柔軟な動作で小澤は、音楽の描く曲線と常に一体化し、ごく微細なアーティキュレーションの追及により驚異的に微妙なニュアンスの表現に成功している。4台のコントラバス群による陰鬱な緊張感を盛り上げ、ヴァイオリン群による美しい抒情的なシークエンスがこれを解消するや、主題群の扱いが異様なトーンを与える苦悩のパッセージへと収斂していく。一体感への帰還はよりおとなしいテンポに同調しつつ、静寂へと戻っていく最後の和音群を際立たせてる。
ベートーヴェンの「エロイカ」のフルメンバーには幾人か西洋人の顔が見える。小澤征爾は極めて急速なテンポで冒頭を開始し、管群のハーモニーの輝かしさを際立たせるまで、その緊張感を緩めようとしない。ただ、クラリネットとオーボエ独奏が至高の美しさを湛えたものだったなら、フルートはちょっと凡庸だったかもしれない。「葬送行進曲」では分厚いコントラバス群と優美なヴァイオリン群がトランペットの短い介入と対話を交わし、終盤の呻きでは弦群の歌が情感を大きく盛り上げる。メトロノーム風の律動感により特徴づけられる「スケルツォ」は模範的な協調を聞かせる4台のホルンが注目に値する「トリオ」を挟む。「フィナーレ」はスケールの大きな作りでいつもながら、柔軟な動きを見せる小澤の体に注意深く密着する弦群のイニシアティブにより流麗に流れ、歓喜極まるフィナーレが聴衆を熱狂させた。アンコールが2曲。天使的に優しいモーツァルトの「ディベルティメント」と、アーティキュレーションははっきりしているものの、大げさに構えすぎたブラームスの「ハンガリー舞曲第1番」。
東京のNHK交響楽団はシャルル・デュトワの棒。「オランダ人」序曲は、強じんな金管、手堅い打楽器と熱気あふれる弦群の混淆により、ダイナミックな演奏になった。中間部の短い静寂の瞬間に木管が主人公ゼンタの主題を奏で、再び嵐。
シベリウスの協奏曲を弾いたタケザワキョウコは、昨年私たちパリの聴衆にエルガーの協奏曲の素晴らしさを発見させてくれた人だ。彼女の弓の扱いの見事さはいまだに生々しく記憶に残っており、そこに破綻はない。しかしながら今回は中低音域に硬さが残り、時として響きが金属的になった。極めて情熱的に弾かれたカデンツァに続き、ただ上手なだけの長いシークエンスが来る。だが、「アダージョ」で転機が訪れ、彼女の演奏が和音の色彩的な響きの中を泳ぎ始める。ここには震えるようなおののきに似た感覚が確かにあった。極めて穏健に弾かれた「フィナーレ」はただ単なる技術的な譜読みに止まり、高音域への飛翔が演奏を不安定にするところなど、1月に同じ協奏曲の見事な演奏を聴かせたサルバトーレ・アッカルドに比べると、もう一歩メチエの不足を感じる。
NHK交響楽団の真の実力を判断するにはプロコフィエフの「交響曲第6番」は、まさにもってこいの曲だろう。冒頭テュッティによる和音の鋭い響きが効果的だ。オーボエ、クラリネットとフルートによる悲しげなメロディーも味わい深い。ところがそれに続く金管が騒々しい。大太鼓の連打と数々の独奏者達の絶望的な咆哮により導入されるクライマックスはトランペットの長く引っ張られる一音に完結を見る。「ラルゴ」での、挑みかかるような管楽器(ことに重々しいホルン)に対する弦群の均質さ。「フィナーレ」を前にしてハープの美しい旋律が一時の静寂を奏でる。全体の陽気なのりが主動的なこの個所では弦楽四重奏を始め、さすがのデュトワもアンサンブルの乱れを統制することが出来なかったが、苦悩と厭世を表現する不協和音を含む二度にわたる結末の出現に見事な統一感を与えたのはさすがだった。アンコールはここでも、またまたブラームスの「ハンガリー舞曲第1番」。こちらはきちんと弾かれただけで、ニュアンスに欠ける。

1997.5.15付EN CONCERT誌:ユベール・ゴサール評(訳・木下健一)


ニュルンベルクの批評です。

教科書用プロコフィエフ

東京のNHK交響楽団がシャルル・デュトワの指揮の下、ニュルンベルクのマイスター・コンツェルトで客演を行った。第二ランクに当たるオーケストラに加わり、直後にそのレベルを上げる。これが彼の特別な点だ。モントリオール交響楽団においてシャルル・デュトワは、どのようにしてたった数年の間に世界的な名声を獲得するのか実際に示して見せた。そうこうするうちに、モントリオール交響楽団は北アメリカのオーケストラの中で第一線に躍り出たのである。
1993年以降今度はNHK交響楽団の番だ。ここでもそのゴールは明らかである。日本の第一の音楽母体は、世界に通用するようになり、これまでドイツが担っていたレパートリーを強化していく必要がある。もはやフランス系カナダ人となってしまったデュトワにとって、まだいくつかの課題が残る。このことは[これまた古きドイツに根ざした]その幕開けが明らかにした。当然この日本人達は、ワーグナーの「オランダ人」序曲に有りとあらゆる狂乱やこの上ない簡明的確な表現を駆り集めた。だが、たとえデュトワが統一感のとれたワーグナーを意図したとしても、威圧的な緊迫感に侵略されてしまっていることが、不思議と生気のない空虚な弱音を完全に阻止することは出来なかった。
それに対しシベリウスのヴァイオリン協奏曲はまた異なった印象を与える。ここでデュトワは[荒々しい流れのエネルギッシュな上昇]を的確に醸し出すために、より弱い音と目立たないところでの[活気ある身振り]に賭けたのであった。そのような瞬間に見せる彼の並外れて大胆不敵な力量の開花は、東京の弦楽器奏者達を驚かせる。シベリウス、−全くのおセンチな物に還元されてしまったが、無味乾燥ではなかった。
そこにまさに当を得てソリスト竹澤恭子が登場した。ドロシー・ディレイの弦楽奏者工房の出身であるこの若き日本人は、心地が良くて誇張された情念からは十分に開放された解釈、完熟しているが完全にまとまってはいない音と、控えめな持ち味のあるヴィブラートの投入に賭けた。その他に関しては、この協奏曲は粗野なものであったが、これは北欧の渋味のある音素材を全くもって容認してしまったことになる。しかしこれは竹澤恭子のせいではない。彼女は決して静止してしまうような兆候を見せることなしに広大なアレグロを扱い、終楽章の三度のスタッカートもほとんど苦もなく克服した。
プロコフィエフの交響曲第6番が問題である。他のいかなる作品も1945年に作曲されたいうまでもなく戦争交響曲である第6番ほど聴く側を重苦しい気分にさせないだろう。ただその最後は祝福され、犠牲者達は嘆かれ、あるいは英雄達は熱狂のうちに迎え入れられるべきなのだろうか。シャルル・デュトワは、このスコアでできる限りの最善を尽くし、その構造の絶対的な明晰さを何とかして得ようと試みる。複雑であり、しばしば拡散している地層を発掘する「音の考古学者」なのだ。−教科書用のプロコフィエフ、演劇論的にハラハラドキドキさせるような吸引力を持った総体、とでも行ったところか。
NHK交響楽団は、−弦楽器は中身が濃く、そして金管楽器は力強く支配的であると同時に締まりがなく−、ためらうことなく彼に従う。たとえテュッティの簡潔な動機の連結が、その細部を必要以上に広げてしまったといえる。

ニュルンベルク情報 1997.5.1&2付


ミュンヘンの批評です。

プロ後半で伝わった繊細なサウンド

NHK交響楽団 新常任指揮者にシャルル・デュトワを迎え脱ドイツ路線をねらう

シャルル・デュトワが日本最古のオーケストラNHK交響楽団の常任指揮者に就任したのは半年前。日本の新聞報道によれば、それまで余りにも「ドイツ的」だったレパートリーを変えていきたい、という期待が彼に寄せられているらしい。ヴォルフガング・サヴァリッシュが30年前からNHK交響楽団の名誉指揮者を務めているのは有名な話。

ミュンヘンのフィルハーモニーで開かれた演奏会で、この日本のオーケストラは冒頭、やたら騒々しい「さまよえるオランダ人」序曲で聞き手を唖然とさせた。続くシベリウスのヴァイオリン協奏曲では、ソリストのキョウコ・タケザワが完璧なテクニックと豊かな音量を聞かせたが、表現力が乏しかった。
最後に演奏されたのはめったに「生」で聴くことのないプロコフィエフの交響曲第6番、デュトワはここでようやく、それまで聴かれなかった独特の繊細な響きをオーケストラから弾きだすことが出来た。ところどころ管の「故障」が聴かれたが、全体的に素晴らしい演奏となった。


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